12か月の未来図

エリート教師は教育格差問題を解決するか

過去には「パリ20区、僕たちのクラス」「バベルの学校」「奇跡の教室 受け継ぐ者たちへ」といった映画もあり、もう少しドラマっぽいものでは「オーケストラ・クラス」もそうですが、移民や貧困層の多い地域の学校が舞台のフランス映画というのは日本でもよく公開されています。

そうした映画がフランスに多いのか、公開される映画の国別比率の問題なのかはわかりませんが、圧倒的に公開作品の多いアメリカ映画ではほとんど見ることがありません。

12か月の未来図

12か月の未来図 / 監督:オリヴィエ・アヤシュ=ヴィダル

上の引用の画像の中央、フランソワ・フーコー(ドゥニ・ポダリデス)先生はエリート校のアンリ4世校で教鞭をとる教師です。ある時、作家である父親の出版記念パーティーで(調子に乗って)移民や貧困層に対する教育問題について、ベテラン教師を派遣すれば解決するという自説を政府関係者(と知らず)に述べたために、自分がパリ郊外の問題校へ1年間派遣されることになります。

その経緯の描き方に、たとえば政府関係者は女性なんですが、ランチに誘われ(若干)うきうきしながら行ってみれば、自分の派遣の話のランチミーティングであったりするなど、若干コメディっぽいところがあるのは、コメディ・フランセーズの正座員とのドゥニ・ポダリデスさんの持ち味なのか、目や口の細かな動きや肩をすくめたりする表情豊かな演技で、参ったなあとか、そりゃないぞとか、おやおやとか、いい味出ていました。

ただ、映画全体としては笑えるようなところはなく、いたって真面目な話で、設定から予想できるとおり、フランソワが子どもたちの教育に苦労するという物語です。

日本のテレビドラマあたりですと、こうした設定の場合、生徒皆が皆、教師の言うことも聞かず反抗的ということはなく、ヨイコがいてワルがいてという場合が多いのですが、この映画の生徒たちは、極端なワルはいない代わりに皆同じように反抗的で集中力がなく、皆ほとんど同じような行動をとります。

これ、結構気になって見ていたんですが、生徒一人ひとりが描かれている感じがしません。つくり手であるオリヴィエ・アヤシュ=ヴィダル監督がイメージする問題校の生徒たちが画一的に描かれている感じがするんです。

もちろん、日本のテレビドラマがいいと言っているわけではなく、それらにありがちな、たとえば教師の熱心さでワルが変わっていくなどという展開がない分好感はもてるのですが、なんだか、生徒一人ひとりが生きていないなあという感じがするのです。マスとしての生徒たちはいるのにそれぞれに個性がない印象を受けます。

これ、批判的なことを書こうとしているのではなく、こうした題材はやはりドキュメンタリーの領域ではないかということです。

子どもたちが俳優であるかどうかはわかりませんが、現実に存在しているだろう教育環境をあえてドラマで作る必要があるんだろうかということで、もし意味があるとするなら、むしろ子どもたちにもっとはっきりした課題を与え、それが達成されるにしても挫折するにしてもその過程をしっかり描いたほうが映画として成立するのではないかと思います。

なんだか、書けば書くほど批判的になってきましたが、ここまでやるのであれば現実の教育現場に入って撮るべきじゃないかと思うだけで批判が目的ではありません。

生徒たちが画一的とはいっても多少のエピソードはあります。セドゥという生徒がいます。退学処分となる決定的な行為以前にも、大麻(だったと思う)入りのケーキをフランソワに食べさせたりという、公式サイトにある「お調子者」という表現があたっているかどうか首をひねることもやるのですが、後半、皆でヴェルサイユ宮殿に遠足(?)に行った際に、閉館後も、好意を持っている女の子と二人で王の寝室に隠れて自撮りして退学処分になります。

むしろ大麻入りケーキのほうが問題じゃないの?とは思いますが、こちらはフランソワが表沙汰にせず、自撮りの方は警備員まで巻き込んだ大騒ぎになったからということなんでしょう。

で、指導評議会というものが開かれて退学処分となります。

指導評議会というのは、校長以下教師たちが話し合って多数決で決めるという会議のようです。フランソワは当事者とかで評決には加われないと言っていましたがなぜなんでしょう? 何の当事者なんでしょう? 評議会の開催を要請したわけでもありませんし、最もセドゥをよく知る担任なのにと思いますけどね。

フランソワは、セドゥや保護者である叔母さんに大丈夫、退学はないとか慰めていましたが、結果、退学となり、校長に抗議するも聞き入れられず、なんとかしようと調べたところ、評議会開催の段取りに瑕疵があると主張し退学は取り消しとなります。

この展開自体にそういうことってあるの?と思いますが、特別ドラマチックにしようとか盛り上げようとの意図がまったくなくさらりと流していいたのはとても良かったです。

今振り返ってみれば、この映画は教育現場や生徒たちの物語ではなく、フランソワの映画かも知れません。フランソワ自身はエリート校の教師ではあっても、エリート臭はまったくなく、戸惑いながらにしても、望んでもいない問題校への派遣もすんなり受け入れていますし、教師たちとも偉そうでもなく上から目線でもなく対していますし、全く言うことを聞かない生徒たちにも、時には怒鳴ったりはするものの、なんとか知識を身につけたり考えたりすることの楽しさを理解させようと、1年の間に一冊の本を読ませることを自分自身の目標として立てています。

あまりはっきりは描かれてはいませんが、この1年で、教師であり大人であるフランソワが変わったということが主題なのかも知れません。恋愛エピソードも入れていましたしね(笑)。

もちろん、生徒たちもちょっぴり変わります。セドゥは、自分からフランソワの隣に来て、フランソワがいなくなることに「さみしくなる…」と小声でつぶやきます。

一冊の本の課題は「レ・ミゼラブル」を読むことで、生徒たちがジャン・ヴァルジャンやコゼットについて感想を述べるシーンはありますが、それ以上に映画的なクライマックスにはならず、代わりに音楽の成果なんでしょうか、合唱を発表が、その曲の良さも相まって結構いいシーンでした。

これですね。


Si Maman si – Michel Berger/France Gall

Facebook に映画のシーンそのものがありました。

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そして、エンドロールのバックには、メリー・ホプキンの「悲しき天使 Those Were The Days」が流れていました。


悲しき天使/メリー・ホプキン Those Were The Days/Mary Hopkin

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