311/森達也、綿井健陽、松林要樹、安岡卓治監督

森達也さんはドキュメンタリーの見方においてかなり影響を受けている人だけれど、この中途半端さは「311-2」を撮ってもらうしかない

森達也監督と安岡卓治監督(プロデューサー)二人のトークがあるということで、公開日の8時半の回に出掛けました。混むかもしれないと思い、その前の上映「瞳は静かに」と2本立てでいこうと6時頃出掛けたところ、すでに補助席かもしれないとのこと、満席でも5、60席とはいえ、すごいです。結局、立ち見も出るほどの超満員でした。


映画『311』予告編

で、この映画、「311」とタイトルはしていても、あの震災について何かを語ろうというつもりはないようです。結局のところ、森達也監督を被写体にして4人で撮ったセルフ・ドキュメンタリーみたいなもののように思えます。あるいは、もともと作品としてまとめる明確な意志があったわけではないらしく、安岡さんが編集して、森さんにこれどう?みたいに見せたことから始まったということからして、安岡さんから森さんへのプライベートメッセージに森さんが答えたものというのが正解かもしれません。

まず映画は、福島第一原子力発電所へ向かう車の中の線量計を映し出します。原発に近づくにつれ刻々と数値があがっていきます。東京の10倍、20倍と声(綿井さんかな?)が入ります。こう書きますと、いかにも事故直後の緊迫感が撮られているようにみえますが、そうではなく、この4人のテンションはかなり異様で、あえて言えば、物見遊山的な高揚感さえ感じられます。

さらにスクリーンには、旅館でビールを飲みくつろぐ様子やホームセンターで防護服(らしきものだと思う)を買い込むところが映し出され、そして挙げ句の果てには、物々しく防護した車で20km圏内(ぐらいだったと思う)に入ったかと思うと車のパンクで立ち往生するという情けなさ、その時出会った現地の人が全くの普通の服装なのに比べ4人はホームセンターで購入した防護服(らしきもの)で完全装備、見事に4人の滑稽さを映し出しています。

念のため、これ、非難するつもりで書いているわけではありません。意図的にそう見えるように作られているということです。

続いて映画は、装備不備のため撤退とかいうテロップが、これも笑いでも欲しいのかと思うくらい意図的に入り、津波で壊滅的被害を受けた宮城、岩手へと入っていきます。

本当に、映像といいますか、視覚的なものの強さを感じさせられます。何もかも流され、瓦礫の山となっている風景が映し出されるだけで空気が一変します。あれだけ浮ついていた福島のシーンとは比べようもありません。当然、4人も無口になり、話す言葉のトーンも落ちていきます。

いくつかポイントとなるシーンがあります。

自分の子どもを捜している女性二人にインタビューするシーン。ひとりの女性が誰にともなく、子供たちは学校で被災し、先生が点呼をとっているうちに津波に襲われ、迎えに来た親が無理矢理連れて帰った子は助かり、そのまま待っていた親子は津波に流され、自分は迎えに行けず子どもが流されたと悲しみと怒りをこらえて語ります。もうひとりの女性が、「この怒りをぶつけるところがない…」とつぶやくと「僕にぶつけてください。そういう役割ですから。」と森さんが答えます。

自らも、相当に偽善的な言葉であり、相手から何かを引き出せるかも知れないとのスケベ根性があって恥ずかしいと語っており、これもあえてカットせず入れているわけですが、この一連のシーンを見ていますと、ああ森さんはマスコミの人間じゃないなあ、と思わせます。インタビューする、いや質問する言葉は文章になっておらず細切れの単語で不正確きわまりなくインタビューになっていないわけですので、どう考えても、ドキュメンタリー作家であってもジャーナリストはないということです。ただ、本人は映画の中で「報道」という言葉をかなり「利用」しており、それがこの映画の問題点であり、森監督の立ち位置の甘さだといえます。

そしてラスト近く、まだ震災直後ですので発見された遺体がブルーシートの上に安置(もちろんそれぞれ布か何かにくるまれています)されていたりするようで、その遺体を撮った撮らないでその場にいた現地の人と口論になるシーンがあります。

ここはかなりいろいろな問題を抱えたシーンです。遺体を撮ることの是非については、こういうものに一般論はないので その場その場で当事者が解決していくしかないと思いますが、それは置いておいても、そもそも4人(誰のカメラか分からないので)は、一体何を撮ろうとして何を目的に遺体にカメラを向けたのかとか、口論の中で森さんは「報道」という言葉を使っていますがそれはどういう意味なのかとか、実際には撮っているのに撮っていないと言い張っているとか、いくつも疑問が残ります。

というわけで、映画はかなり中途半端な状態で投げ出されたまま終わります。

一体これは何なのか?ということで、冒頭のセリフドキュメンタリーみたいなもの、あるいは安岡さんから森さんへのメッセージに森さんが返したものというところに戻るのですが、いずれにしても、あえて自分たちのみっともなさをさらけ出していることは間違いないです。

では、なぜそんなことをするかですが、ひとつはメディア批判だと思います。当然メディアというのは、人の不幸をネタに金を稼ぐみたいなところがあるわけで、多くのメディアはそれを自覚していない、後ろめたさを持っていないということを自分を被写体にして見せようとしたのだと思います。もちろん、最初からそれを意図していたわけではなく、結果的に、本当に後ろめたさを感じて出来上がった作品だとは思いますが…。その意味ではある種まじめな作品ではあると思います。

ただ問題は、自分たちのみっともなさを逆手に取ったその手法が、居直りや逃げになっていないのだろうかということです。その当たりかなり微妙ですが、私はなんとも言えずすっきりしない気持ちを抱きました。特に自ら「報道」と名乗るあたりは見ていても居心地の悪さを感じました。それに本当にこの映画がメディア批判にまで突き抜けているかどうかはこれまたかなり微妙です。

森達也さんは、私がドキュメンタリーを見るようになってから、いろいろ本を読んだりとドキュメンタリーの見方において影響を受けている人ですので、この映画を批判的にみているわけではありませんが、やはりこの中途半端さは、いずれ何かで、「311-2」のようなもので解消してほしいものです。

それと安岡さんとの関係で言えば、安岡さんはあえて森さんのみっともなさを突きつけて、その答えを待ったのだと思います。もちろん、深読みすればですが…。

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