これは愛、死、悪に関する三部作の最終章ではない。撮り直してとお願いしたい。
ファティ・アキン監督、「愛より強く」から「ソウル・キッチン」までは続けざまに撮っていた印象があったのですが、ドキュメンタリーを一本撮っているとはいえ、この作品までには随分間があいています。
それにわざわざ「愛、死、悪」の三部作と(多分本人が)位置づけての完結編とくれば、「愛より強く」も「そして、私たちは愛に帰る」も相当気に入っている作品ですので、いやが上にも期待は高まります。
が…
最新作の『消えた声が、その名を呼ぶ』では、知られざる歴史的事件を物語の出発点にした。100年前、オスマン・トルコ国内で起こった、アルメニア人虐殺。その犠牲者数は100万人とも150万人とも言われ、今なおアルメニア政府とトルコ政府の見解が一致していない歴史的事件だ。
ファティ・アキン監督は、本作について「良心の探究をテーマにしている」と語り、『愛より強く』、『そして、私たちは愛に帰る』に続く「愛、死、悪に関する三部作」の最終章、<悪>として位置づけている。(公式サイト)
これ、誰か違う監督の映画でしょう! というくらいに、首をひねるような作品でした。
まあ言うなれば、なが~いダイジェスト版を見ているような感じで、ストーリーは分かりますが、人間の思いとか、時代の空気とかもあまり感じられず、(監督の)怒りや喜びや(あるいは)屈折感といった、これを撮ろうとしたエネルギーのようなものも伝わってきませんでした。
アルメニア人であるナザレット(タハール・ラヒム)が、トルコ(オスマン帝国)に捕らわれて強制労働につかされ、その間に家族も虐殺、あるいは迫害にあい、かろうじて生き延びたナザレットが、双子の娘の生存を知って、トルコからキューバ、そしてアメリカ大陸を探し回ります。
「アルメニア人虐殺」という歴史上有名な事件を描いています。よく知らなかったこの事件をある程度詳しく知ることができたのはよかったのですが、映画はそれだけじゃないですからね。
で、映画は、ナザレットが移動していく場所、10ヶ所近くはあったように記憶していますが、その場所ごとの出来事をまるでこんなことがありました的にエピソードのように描いていきます。たとえば、ナザレットを含むアルメニア人たちが20人位虐殺されるシーンがあるのですが、たまたまナザレットの喉を掻き切る役目になった男(だけ)が気弱(かな?)だったために、喉を刺されただけで命拾いするといった具合です。
そのために喋れなくなるのですが、それは置いておいて、そうしたたまたまが移動していくほとんどの場所で起きるのです。アルメニア人の収容所(?)でたまたま義理の姉に出会ったり、どこかの街では雇っていた弟子に出会い、なぜかその弟子は唐突に「娘達が生きているのを知っていますよね」と伝えたり、行く先々で喋れない彼の思いを即座に理解して親切にしてくれる人々が現れたりと、まあ映画ですから、そうした偶然で物事を進めていくことはありなんでしょうが、それにしても(印象としては)都合良すぎます。
これでは物語の奥行きがなくなってしまいます。
奥行きという点では、時代が1915年ごろから10年位ということもあるのでしょうが、VFX が多用されているようで映像的にも現実感が薄く奥行きのないシーンが結構あったように思います。
この大河的なストーリーを(三部作の)前二作の雰囲気で撮るのなら、6時間位の超大作を覚悟で撮るべきだったと思います。
ということで残念な結果でしたが、もし、ファティ・アキン監督にとって「愛、死、悪に関する三部作」の発想が後付けでないのなら、またトルコ系というアイデンティティから「悪」の題材としてこの事件を取り上げたとするのなら、きっとあらためて真の完結編を見せてくれることでしょう。