禁じられた歌声/アブデラマン・シサコ監督

この映画に、我々がメディアを通して知る「イスラム国」を重ね合わせるのはどうなんだろう?と思う

この映画、昨年のフランス映画祭で上映されているようですが、このフランス映画祭というのは、ほとんどの作品が劇場公開されますね。

逆ですかね? すでに配給のついている映画を集めているとか?

まあ良い映画が多いのでどちらでもいいんですが、この「禁じられた歌声」は、セザール賞の最優秀作品賞など7部門を受賞し、アカデミー賞外国映画賞にもノミネートされたそうです。

西アフリカ、マリ共和国のティンブクトゥ。この世界遺産にも登録された美しい古都からほど近いニジェール川のほとりの砂丘地帯で、少女トヤは、父、母、牛飼いの孤児と幸せな生活を送っていた。
しかし街はいつしかイスラム過激派のジハーディスト(聖戦戦士)に占拠され様相を変えてしまう。兵士たちが作り上げた法によって、歌や笑い声、そしてサッカーでさえも違法となり、住民たちは恐怖に支配されていく。(略)悲劇と不条理な懲罰が繰り返されていく中、トヤの家族にも暗い影がすこしずつ忍び寄り、ほんの些細な出来事が悲劇を生もうとしていた…。(公式サイト

クレジットは、フランス・モーリタニア共作となっています。モーリタニアってどこだ?と調べてみましたら、西アフリカ、映画の舞台である隣の国マリとともにフランスの植民地だったところですね。地図を見ますと、中東と同じように国境線が直線です(…)。

それは置いておいて映画ですが、予告編や公式サイトから受ける印象とは随分違って、とても興味深い映画でした。

確かに、ストーリーは紹介にある通りなんですが、そうしたものから想像される抑圧される自由とか凄惨な暴力とかを感じるようなシーンはほとんどなく、たとえば、ジハーディスト(という表現でいいのかな?)が女性に手袋をしろ(肌を見せるな)と指示する場面にしても、女性にとことん抵抗させていますし、それに対して彼らが暴力振るうわけでもなくじっと聞いているだけです。歌を歌った女性が鞭打ちの刑を受ける場面もさほどひどさ(いや、充分ひどいけれども映画的にという意味で)は感じられません。

つまりどういうことかと言いますと、この映画、西欧的な善悪や正義不義の価値観で撮られていないのではないかと思えるのです。

もちろん、ジハーディストを標榜する者たちとそうでない者たちとの間に対立関係はありますが、ジハーディストをいわゆるテロリスト、我々がメディアを通して刷り込まれてしまっている残忍な暴力主義者としては描いていません。

その対立がイスラム法の解釈にあるようなシーンが幾つかあります。たとえば、ジハーディストの男が住民の女性を妻に欲しいとその母親に申し出ますが、母親がきっぱりと断ったために、男は(はっきりとは記憶していませんが)自分には権利があるみたいなことを言って去ります。

そして、後日(そのシーンありませんが)男が女性を無理やり(何を意味しているのかはっきりしない)妻にしたことについて、住民側の法学者とジハーディストの指導者のイスラム法を巡る論争のような場面があるのです。

また、トヤの父が隣人との争いの中で、故意ではないのですが相手を殺してしまいます。当然、為政者であるジハーディストたちの囚われの身となるのですが、その後の進展が、見方はいろいろあるにしても、決して理不尽な裁きとも見えなく描かれているのです。

まず最初に、西洋法で言えば検事の尋問のようなシーン、尋問というよりも対話と言ったほうがいいような個的な会話のシーンです。ふたつ目が裁判だと思いますが、こちらも全く権威主義的なところはなく、裁くのはあくまでも神といった感じです。

こんな感じで、テロリスト対抑圧される罪なき人々みたいな話を期待して(行ったわけではありませんが)行きますと肩透かしを食わされます。

こうしたことが何を意味してるのかはっきりしませんので興味深いと書いたのですが、いずれにしても、「運命(と訳されていた)」という言葉が頻繁に出てきますし、「神」にすべて預けているといったニュアンスで「生」が語られています。

映像的には、何かことが起きる時は引いた画で風景全体をとらえたカットが多く、逆に、会話のシーンではじっと相手を見つめる顔をアップでとらえることが多く感じます。

何が起きてもそれは「神」の意志であり、相手をじっと見つめる澄んだ目も、その先に「神」を見ているということなのでしょうか。

と、書いたのですが、今、監督のインタビューを読んでみましたら、そうでもなさそうですね。