家族関係が過剰すぎてよく見えない家族の物語かな?
今年2018年のカンヌ、パルムドール受賞作です。1997年の「うなぎ」以来の21年ぶりだそうです。
公開一週間で「興行収入は約12億円、14日時点の観客動員は約100万人を記録」(映画.com)ということらしく、このまま伸びていくかどうかはわかりませんが、受賞による宣伝効果というのはすごいですね。
この映画について、是枝監督は、自身のサイトで、審査委員長のケイト・ブランシェットさんが使った「invisible people」という言葉を受けて、「僕が描こうとしたのも普段私たちが生活していると、見えないか、見ないふりをするような「家族」の姿だ」と語っています。
この監督の言葉は意味がつかみづらく難しいですね。「見ないふりをする家族の姿」ってなんでしょうね。
それに続いて、「その生活と感情のディティールを可視化しようとする試みが今回の僕の脚本の、そして演出の柱だった」とも語っています。
「見えない人々」を描こうとしたと言っているわけではないですし、実際、この映画で描かれる、子どもへの虐待、ネグレクト、それに貧困や年金搾取(不正受給?)は、もうすでに「見えない」ものではなく、毎日とは言わないまでも、またかと感じるくらい日々のニュースに登場するようになっています。
ところで、このケイト・ブランシェットさんの「invisible people」という言葉、この映画への直接的な言及ではなく、#MeToo やコンペティションには選ばれたのに国から出られないキリル・セレブレンニコフ監督やジャファール・パナヒ監督、そして俳優たちを念頭に置いたメッセージのようです。
to the so-called invisible people: the disempowered, the displaced and the disillusioned, as well as those searching for connection, unification and love.
で、映画ですが、意外だったのは、この家族は万引きを生活の糧にしているのかと思っていましたら、そうではなく、おばあちゃんには年金もありますし、それぞれ仕事はしていますし、描き方の上でも、万引きをすることの必然性は感じられず、大人たちが子どもに万引きを強要しているようにも見えなく、子どもは子どもで万引きを楽しんでいる風でもなく、最後に万引きが家族を崩壊させるきっかけになることをのぞけば、そもそも万引きをしなければ、そのまま結構楽しくやっていけたのではと…、あらら、最初から話をぶっちゃけるようなことを書いてしまいました(笑)。
テーマは、ほぼ「誰も知らない」と一緒で、身勝手な大人たちのせいで居場所を失った子どもたちなんですが、この映画では、その子どもたちが仮に居場所を得たとして、その場所が社会的許容を越えた、しかしながら、子どもたちには居心地がいい場所であったとしたらどうなのかというところまで一歩進めています。
それがおそらく是枝監督のいう 「見ないふりをする家族の姿」に通じているのでしょう。単純に考えれば、家族って「血」じゃないよ、「情」だよってことかとは思いますが、なにせこの映画、家族関係がかなり複雑ですので、かなり見通しは悪くなっています。
役名がはっきりしませんし、映画内での命名にかなり思い入れがあるようで分かりづらいですので、一部俳優名で書きますが、おばあちゃん樹木希林の家に血縁関係のない家族が同居しています。
息子夫婦のように振る舞うリリー・フランキーと安藤さくらは、ラストに明らかになりますが、安藤さくらの元夫をリリー・フランキーが殺し、多分 DV夫だったんだと思いますが、正当防衛が成立したようです。婚姻関係があるかないかはわかりません。
息子のように振る舞う祥太は、ラストまでなぜ同居しているか明かされませんが、パチンコ屋の駐車場の車から連れ去ってきた子どものようです。安藤さくらは子どものできない体というようなことを言っていましたので、それゆえかもしれませんが、何も語られません。
年齢的には安藤さくらの妹にも見える松岡茉優は、これもラスト近くまで明らかになりませんが、樹木希林の元夫の孫で、血は繋がっていません。理由はわかりませんが、家には居場所がないという設定だと思います。
そこにもう一人、祥太の妹になるゆりがやってきます。
ゆりの両親は、ネグレクトで、ゆりは虐待も受けており、家を抜け出して隠れているところをリリー・フランキーと祥太に見つけられ、連れて帰られ、そのまま同居します。
安藤さくらと一緒に風呂に入るシーンでは、安藤さくらも元夫からの DVなのか、子どもの頃の虐待なのか、同じところに傷があるねというシーンがあります。
という「血」のつながりのない家族が、ひとつ屋根の下で居心地良く暮らしているという物語です。
想像で言えば、シェアハウスみたいなものでしょう。
結局、過剰な人間関係を求められれば人は疲れます。「血」のつながりのない関係は、ほどほどで心地よいということだと思います。
ただ、そこにだって「絆」を求めれば、過剰な「情」が生まれ、いずれ居心地は悪くなります。
というところへ、映画はいきません(笑)。
この家族が崩壊する原因は、祥太に芽生えるリリー・フランキーに象徴される反社会性への抵抗です。
この家族の中で万引きをするのはリリー・フランキーと祥太だけですが、そこにゆりが加わったことで、祥太に迷いが生まれます。ただ、万引きのプロなのになぜ失敗しやすい子どもを連れて行くのかはよくわかりませんが、そこは映画だからと気にせず進めますと、ある日、祥太とゆりが、いつも万引きをしている駄菓子屋で万引きをしますと、主のおじいちゃんに呼び止められ、これを持って行けと駄菓子をもらい、妹にはさせるなよと言われます。しばらく後、その駄菓子屋に「忌中」の張り紙があります。
また後日、スーパーでの万引き場面、ゆりが何かを万引きします。その瞬間、祥太は衝動的(に見える)に自ら目立つように万引きし、店を飛び出し、わざと捕まります。
こうして、この家族は社会の知るところとなり、省略して書いていませんが、おばあちゃんが亡くなり庭に埋めたことやゆりの誘拐容疑などの反社会性により、崩壊していきます。
祥太は施設に入ることになり、ゆりは両親のもとに連れ戻されます。
祥太にはおそらくいろいろな思いが渦巻いているのでしょうが、それらあらゆることを経験として受け入れ成長していくんだろうと思える強さが見えます。
一方、ゆりの方はと言えば、両親は何も変わっておらず、ゆりには過酷な将来が待っているようです。
ラストカット、アパートの廊下で寂しそうに遊ぶゆりが、ふと外を見て、一瞬喜びの表情を浮かべます。
祥太が見えたのでしょう。
でも、何も変わらないということです。
結局、「血」でつながろうが、「情」でつながろうが、「絆」を求めれば同じことで、要は「自立」、つながることはそれからでしょう。
過剰な「絆」を求める社会は崩壊します。今の日本がそうです。
映画とは離れてしまいましたかね(笑)。
この映画、結局、何か見えるようで何も見えない、かなり曖昧模糊とした映画で、理由はいろいろあるとは思いますが、一番は、俳優が皆器用すぎてメリハリなくだらだらとしているからだと思います。