愛しのアイリーン

男性しか癒せない映画????田恵輔(吉田恵輔)監督の映画は、「ヒメアノ~ル」「犬猿」に続いて3本目です。「犬猿」が(ラストをのぞいて)面白かったので早速見に行ったのですが、こちらは、何だかいやーな感じのする映画でした。ある意味、そう感じさせることが狙いでもあるとは思うのですが、それをラストで昇華させてくれれば、それはそれでよかったのですが、そこまではいっていないというところです。

公式サイト / 監督:?田恵輔

原作が新井英樹さん(知らないけど)の漫画だということでググってみましたら、ウィキペディアにあらすじがありました。これを読みますと、物語自体は、かなり原作に近く作られている感じです。

「日本(の農村)の少子高齢化」「嫁不足」「外国人妻」「後継者問題」といった社会問題に真っ正面から取り組んだ作品。

原作についてはこうあります。ただ、映画からは社会問題という意識はほとんど感じられず、背景としては確かにそうなんですが、むしろ、人間の本音(とも言えないが)のぶつかり合いみたいなものが浮かび上がってくる感じです。

思い返してみれば、私が見た過去二作もそうした傾向が強いですね。

「犬猿」の江上敬子さんはすごかったんですが、この映画では、ツルをやっている木野花さん、岩男(安田顕)よりも、この映画の軸になっているキャラクターです。キャラクター作りがうまい監督ということになるのかもしれません。

宍戸岩男42歳、農家の長男で独身、女っけなし、パチンコ屋の店員をやっています。父親の源造には痴呆が来ており、家のことも農業も母ツルが取り仕切っています。岩男が農作業をやるようなシーンもなく、この先農業をどうするかという話もありませんので、仮に原作に農家の跡継ぎ問題への意識があるとしても、映画ではすべて省かれているということになります。

岩男は、顔立ちもごつく、髭面で、ボソボソと低い声でしか話しませんので、いわゆる非モテ男キャラという設定です。結婚に対する意識は何も語られずよくわかりません。たとえば宍戸家を継がなくてはいけないからとか、ツルを安心させたいとか、そうした意識は全く描かれておらず、むしろ、性欲の対象として女性を見ているようでもあり、実際、映画の始まりは、一度関係を持った同僚の女性から誕生日プレゼントをもらうシーンですが、どうやらその関係は嫌々だったらしく、プレゼントも捨ててしまいます。つまり、それでもセックスをしてしまう男ということです。

岩男には密かに好意を持っている別の同僚女性がいます。しかし、その女性は、愛情とセックスは別と考えているらしく、これまた同僚の男性と関係を持っており、岩男はその男性からその行為のあれこれを聞かされ、それなら自分もとアタック(死語)しますが、「好きです」なんて言ってしまいますので、「私、真剣なのはダメなんだよね」と返されてしまいます。

母親のツルはそんな岩男を溺愛しているという設定らしいのですが、むしろそれよりも、家系を守るという意識が強い人物として描かれており、岩男の嫁(妻ではない)探しのために見合いの話をする場面でも、やはり宍戸家というものがかなり意識されています。

ですので、物語の背景としては、「農家に嫁が来ない」という社会的な問題が意識されているわけではなく、土着意識の強い田舎であるがゆえに家系を絶やせないと考えるツルと、結婚はしたいが非モテ男キャラであるがゆえに相手がいない、そんな母と息子の物語ということになります。

そこにフィリピーナのアイリーンが加わります。

その経緯はこういうことです。

同僚の女性に振られた岩男は誰にも告げずに姿を消してしまいます。岩男がいない間に源造が亡くなります。葬式の日、突然、岩男がアイリーンを連れて戻り、結婚したと告げます。

岩男はフィリピンへのお見合いツアーに参加し、アイリーンと結婚して帰ってきたのです。お見合いツアーといっても、要はフィリピンの女性との結婚を斡旋する業者に300万円を支払い、女性の家族に月々仕送りをするとの約束で、アイリーンを買ってきた(に等しい行為)ということです。

アイリーン自身も理解していることにはなっていますが、それは買う側の論理でしかなく、アイリーンにとってみれば、家が貧しく、父親はいなく、兄弟もたくさん、家族を助けるのがあなたの人生よ、母が喜ぶからね、と育てられているとすれば、それは理解ではなく、その生き方しか知らないということでしかありません。

この点については、映画も目をつぶっているわけではなく、塩崎(伊勢谷友介)という、日本人とフィリピーナの間に生まれ、フィリピーナをフィリピンパブへ送り込む斡旋業をやっているヤクザ系の男を置き、その塩崎は、日本人を憎み、それに甘んじているフィリピン人を憎む(と見える)人物として、アイリーンに対して、フィリピンパブで働き売春をすることとお金と引き換えに結婚することと何が違うのだと挑戦的な言葉を投げつけます。

ただ、そうした人身売買にも似た国際結婚のからくりに対してそれ以上踏み込んでいるわけではなく、逆に、アイリーンがそうした欺瞞的な行為を乗り越えて、愛(らしきもの)をみつけようとするきっかけのような扱い方をしています。

話が後先になってしまいましたが、ツルにとってみれば、どこの馬の骨ともわからない、ましてやフィリピーナを宍戸家の嫁として受け入れることなどできるはずもなく、岩男とアイリーンは、結婚はしたものの家に入れてもらえず、ラブホテルを転々とします。

アイリーン(ナッツ・シトイ)は、いくつの設定かわかりませんが、未成年にもみえる楽天性と陽気さを持つ、印象としては女の子という感じです。日本語は話せず、タガログ語(でいいのかな?)と英語を話します。フィリピンパブで知り合ったフィリピーナに辞書をもらい、次第に片言の日本語を話すようになっていきます。

アイリーンは、かなりしっかりしたキャラクターで、たとえば、ツルが、日本語はわからないだろうと何気ない顔で差別用語を投げつけているのに対し、タガログ語で「この、クソババア」(のような感じ)などと言い返させたり、岩男が結婚したんだからとセックスを求めても、タガログ語で「最初は愛する人と」などと言わせて、逃げ回らせていました。

で、その後、どういう展開だったか細かいことは落ちちゃっていますが、岩男とアイリーンが家に戻ることができるようになり、とはいっても、決してツルは許したわけではなく、アイリーンを追い出すことを画策します。それに、付け込んだのが塩崎です。

なぜ塩崎があれほどアイリーンに執着するのかはわかりませんでしたが、まあ展開上必要だったのでしょう、とにかくアイリーンを無理やり連れ去ってしまいます。

それを知った岩男は車で追いかけます。山中で追いつき、あれこれと、ここは結構見せ場のシーンでもあり、いろいろあって、岩男が猟銃で塩崎を撃ち殺してしまいます。

ちょっと驚きの展開であり、どうなるのかと思いましたら、岩男とアイリーンは塩崎を山中に埋めてしまいます。その異常で狂った行為が興奮状態を呼んだのでしょう、二人は血まみれのまま結ばれます。

普通、こうした展開は、ドラマとしてはある種のクライマックスですので、後はエンディングに向けて、散らかした様々なものを回収してどう収めていくかになるのだと思いますが、この映画はそうはなりません。クライマックスではなかったということです(笑)。

ややごちゃごちゃしていますので大筋だけ書きますとこういうことです。

塩崎の仲間のヤクザがやってきて、岩男を付け回します。そのうち、家や車に「岩男は人殺し!」といった落書きをしまくります。ヤクザがそんな面倒な上に目立つことをやるのかなあ?と思いますし、そう言えば、あのヤクザ(っぽい)二人組、その後出て来なかったですね。

ツルはと言えば、少なくとも血まみれの二人を見ているわけですから、何があったかはわかっているのでしょうが、息子が殺人犯であるかどうかなどお構いなく、相変わらず、アイリーンを追い出すことに執着しています。

正直意味不明ではあるのですが、アイリーンに用を言いつけて遠くに行かせ、その間に岩男に別の女性と見合いをさせ、岩男に女性を送らせて、薬を使って(か、女性の演技かは不明)関係をもたせようと画策します。

本当によくわかりません(笑)。

ただ、木野花さんの演技で、一種病的ともいえる思い込んだら最後まで突っ走るツルという人物に存在感はあります。

で、岩男なんですが、アイリーンに対しても、件の同僚の女性に対しても「〇〇〇〇させろ」と下品な言葉でやたらセックスを求め始めます。実際、同僚の女性とは仕事中にセックスするシーンもあり、おそらく映画的には人を殺したことからくる逃避の表現かとは思いますが、ただ、安田顕さんの演技からしてもそのようには見えません。

無口で朴訥で、目に見える優しさは見せられないが、それは不器用だけで本当は心優しい男。

こうしたパターン化された男のイメージがあると思いますが、そのイメージを前提にすれば、確かに、田舎、見た目非モテ男キャラ、無口など、そのように造形されてはいますが、肝心の岩男の本音が全く見えません。岩男の本音がみえるシーンがありません。

あまり批判的なことを書きますとあれこれ言われそうですが、こういうところは、原作が青年男性向けの漫画というところから来ているのではないかという気がします。これが最初にいやーな感じがすると書いたことなんですが、言うなれば男の妄想のオンパレードみたいな感じということですかね。こんな男(岩男)だけどわかってよというのは男の甘えですし、こんな女の子(アイリーン)がいたらいいなあというのは男の妄想ですし、(おそらく)自分も「嫁」であったにもかかわらずいつの間にか家にしがみつく女(ツル)としてしか母をイメージできないのも男の思い込みなんだろうと、私は妄想します(笑)。それにそもそも人に対する、特に女性に対する敬意のようなものが感じられません。

で、映画の結末です。

映画的には唐突なんですが、シーンは冬になっています。岩男が雪深い山中で、辺りの木々にナイフを突き立てています。足を滑らし、斜面を滑り落ちていきます。

いなくなった岩男をアイリーンが探しています。車を見つけ、山中に分け入ったアイリーンは、ある場所で立ち止まり、はっとします。アイリーンの目の前の木々には大きな文字で「アイリーン」の名前がいくつも刻み込まれていたのです。もしやと思ったアイリーンが崖の下を覗きますと、そこには雪に埋もれた岩男が横たわっています。もちろん死んでいます。

アイリーンはツルを連れてきます。ショックを受けたツルはその場に倒れ込み、声を失ってしまいます。ツルを背負い必死に家に戻ろうとするアイリーンですが、ツルは逆に包丁を突きつけ、自分を山に捨てろとアイリーンに命じます。

アイリーンは、そんなことは出来ないと泣き叫びながらもツルを背負って山へ入っていきます。包丁を突きつけられながらアイリーンが涙ながらにつぶやきます。

「岩男さんの子どもがいるの」

ツルはかすかに微笑みながら息絶えます。

雪山にひとり残されたアイリーンは、何を意味するのか、うぉーと叫びます。(と、叫んだかどうか記憶にない)

この一連のラスト、言葉にしてみますとかなり嘘っぽく感じられますが、見ている時はそんな感じはしなかったです。極端に盛り上げようとしていなかったこともあるでしょうし、姥捨てにしてもちゃんと伏線は張ってありましたし、監督の意図として、良くも悪くも、ツルのふっと緩んだ顔を見せようしたことがわかったからじゃないかと思います。

映画の意図とも、原作の意図とも全く違うとは思いますが、「嫁」として宍戸家に嫁いできたツルがやっと自分の役目を終えたと感じた瞬間なんだろうと思います。

切ないですよね。「家」というしがらみに絡め取られて一生を終えたわけですから。

と、この映画は、実はツルの映画だったと妄想したという話(笑)。

さらに言えば、岩男にしろ、源造にしろ、男は勝手なことをやっていながら、自分は不幸だったと自分を慰めながら自慰行為のように勝手に死んでいきますが、残されて苦労するのは女ばかりという、なんとも不条理なお話ということでしょう。

物語としては、都会のクライムものとしてやれば面白いのではないかと思いますが、 背景に

「日本(の農村)の少子高齢化」「嫁不足」「外国人妻」「後継者問題」といった社会問題

も持ってきているがために、そうした問題への切り込みを避けてしまえば、いやーな感じしか残らないものになってしまうのだと思います。

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