聖なる犯罪者

信仰、赦し、正しさ、良心とは何か?だが基本はエンターテイメント狙い

昨年2020年のアカデミー賞国際長編映画賞にノミネートされたポーランド映画です。つい先日見た「この世界に残されて」にも書いたのですが、受賞したのは作品賞も受賞した「パラサイト」でした。ただ映画のテーマ性としては、描けているかどうかは別にしてこちらの方がより深い人間性に迫ろうとしています。

聖なる犯罪者

聖なる犯罪者 / 監督:ヤン・コマサ

犯罪者が聖職者に成りすます話ではない

タイトルに「犯罪者」という言葉を使っているのはよくありません。

確かに主人公の20歳の青年ダニエル(バルトシュ・ビィエレニア)は殺人を犯し少年院に入っていますが、映画はダニエルを犯罪者という視点で捉えてはいません。また、ダニエルは少年院を仮退院した後、本人の願いと偶然が重なり聖職者として振る舞うことになりますが、そこにある映画の視点は真の信仰とは何かということと憎しみと赦しの問題です。

原題はポーランド語で「Boze Cialo」、ラテン語では「Corpus Christi」、キリストの体を意味し「聖体祭」のことらしいです。映画の中でもそのシーンがあります。

ところで、この聖職者に成りすますということ自体は現実にあったことらしく、脚本のマテウシュ・パツェビチュさんによればポーランドでは「毎年こういう事件が起こ」るらしいです。本当か? と思いますがインタビューでそう語っています。

成りすますためには当然それなりの知識も必要となるわけですので、この映画では、ダニエルは少年院でも司祭の手伝いをし自分なりに聖職というものを理解しており仮退院の時にも司祭に聖職者になりたいと願い出るも犯罪歴がある者はなれないと諭されるという設定になっています。

え? なれないの? 赦されないの? と思いましたので、今ざっとググってみたところではなれないわけでもなさそうです。それに見ていませんが「ムショ帰りのカリスマ神父」なんていう宣伝コピーのついた「神様の思し召し」という映画もありました。

ただ、カトリック教会はヒエラルキー組織ですので暗黙のルールみたいなものがあるのかもしれません。

ネタバレレビューとちょいツッコミ

少年院のシーンです。入院者たちが木工作業の職業訓練を受けています。指導者が場を離れます。誰かが合図しますと皆が一斉に動き出し一人の少年に暴行を加え始めます。その動きは組織だっておりそれが日常的であることを示しています。

このシーンでダニエルがどういう役回りをしていたか、なにせファーストシーンですのでどれがダニエルなのかつかみきれていません。見張りをしていたのがそうだったかもしれません。

少年院内の教会での礼拝シーン。ダニエルは司祭の助手のような役割をしています。ダニエルが賛美歌を歌います。

続いて食堂のシーン(順序にちょっと自信がないが…)。やや年齢のいった大柄の男が入ってきます。懲罰房(日本の少年院では何々寮というらしい)から戻されたようです。ダニエルの後に座り何やら悪態をついています。突然目の前の皿をダニエル叩きつけます。男は再び連れて行かれます。

ダニエルの仮退院日。ダニエルが真剣な眼差しでトマシュ司祭と話しています。司祭が、(何度も言ったがといったニュアンスで)前科があると聖職者にはなれないと話しています。(神学校へ入学できないという意味かもしれません)さらに、酒やドラッグ(他の字幕だったと思う)はやるなと言っています。

町中のクラブ(ディスコ)のシーン。ダニエルは酒を飲みマリファナを吸い、トイレでセックス(フ○○クというニュアンスの行為)をしています。

と、ここまでまるでダイジェスト版のような話の運びになっています。確かに本題はこれからなんですが、この導入をもう少し丁寧に描かないと映画的に深まりません。とにかく導入のつくりはとても荒いです。

ダニエルがバスで移動しています。タバコを吸っていますと男が捨てろと言ってきます。ダニエルが反抗的な態度をとりますと男は警察手帳を見せます。

この警官はラスト近くのシーンでどこか出会ったなとなりすましがバレるのではないかとの不安を煽る役目に使われています。ただ決定的ではなく扱いは中途半端です。

草原を走る一本道でバスを降り草原を突っ切って小さな村に向かいます。製材所も見えています。美しい草原の風景で少年院の描写と対比させているのでしょう。

たびたびのツッコミで邪魔くさいかと思いますが(笑)、これが日本映画なら、こんなところにバス停はないだろうとツッコミを入れているところです。実際村には広い通りもありますし、町長はアウディに乗っています。美しい風景ですので許します(笑)。

ダニエルは教会に向かいます。通りに6人の若者たちの写真が貼られ花束が添えられた場所があります。教会に入りますと同年代の女がひとり座っています。礼拝は?と尋ねますと、もう終わった、製材所の人ねと言います。いや、司祭(聖職者の他の言葉だったかも)だと答えますと、服は?(なんと言ったのかわからないがカソックという聖職者の平服のことだと思う)と言われ、ダニエルはカソックを見せます。女が紹介するわと奥へ入っていきます。

この映画、冒頭からの導入でもそうですが説明的なものを避けて作られています。それは映画に対する考え方として映画は説明するものではないということではなく、説明を避けるためにシーンをカットしていった結果ではないかと思います。つまり、それぞれのシーンに意味がにじみ出てくるということではなく、後からああそうかとわかるギリギリのところまでカットされた結果でないかということです。

たとえばこのシーンでも、おそらくダニエルは相手が同年代の女性であったので冗談のつもりで言ったのだと思いますが、その女性マルタ(IMDbではエリザとなっている)が勘違いしたことにより聖職者のふりをしなくてはならなくなります。しかし、なぜマルタが勘違いしたかには一切触れられていません。後に高齢の司祭が倒れることになりますので、多分サブとしての聖職者派遣を教区に依頼していたのでしょう。

もうひとつ、そのシーンでマルタがイヤホンをつけて何かを聴いていましたのでどういうことだろうと気になっていたのですが、何を聴いていたのかはっきりしないにしても、マルタはこの後の物語の軸となる6人プラス1人が亡くなった交通事故の犠牲者のひとりの妹であり、後に明らかになるその事故に関わる動画を見ていたのかもしれませんし、耳を閉ざすという意味で、少なくとも兄の死に関して思い悩む孤独さの表現であったのだろうと思います。

むちゃくちゃ長くなっていますね。簡潔にいきます。

マルタはダニエルを司祭と自分の母であるリディアに紹介します。ダニエルはトマシュ(少年院の司祭の名前)と名乗ります。司祭はどこの教区からきた?とか神学校はどこだ?と尋ねますがダニエルは適当にごまかします。

映画的には、この場の司祭は疑いの眼差しを投げかけているように見えます。しかしそれはこの場の緊迫感を出すためだけで後々使われることはありません。同じように後にある町長との対面や上に書いたバスの中で出会った警官もラスト近くに登場し疑いの眼差しを向けますが、どれもそのシーンだけの緊迫感のためにしか使われていません。つまり、それらの疑い(があるとして)とは関係なく成りすましはバレるということです。この方法はこの映画がサスペンスではないという意味にもとれますが、映画的には荒削りに感じます。

ある日、司祭が倒れて(なぜかは説明されない)遠くの町に入院することになります。ダニエルが司祭の代わりに翌日の礼拝を務めることになります。ダニエルは慌てます。スマートフォンで礼拝の次第を調べたりし緊張で眠れない夜を過ごします。

礼拝の日、ダニエルが緊張の面持ちで入ってきます。音楽とはじめの言葉(父と子と聖霊のみ名によって)が重なり慌てます。言葉が出てきません。突然ダニエルは「沈黙も祈りです」といい賛美歌を歌い始めます。参列者も合唱し始めます。

また後日、告解(赦しの秘跡)もします。やはり緊張した面持ちですが持ち前のある種の経験値の高さから告解者の嘘を見抜き辛辣な答えを投げかけたりします。

といった感じでダニエルは司祭の役割をこなしていきます。礼拝のシーンもこの後何シーンかありますが、聖書の一節を読んだり説教をするシーンはありません。いわゆる本音の生きた言葉で語りかけます。つまり形式的な儀式ではなく、本質的な祈りとは何か、赦しとは何か、正しさとは何か、良心とは何かなどを考えさせる言葉を語っているという描き方がされています。

これがこの映画のひつの軸です。ただ、物足りません。ダニエルの苦悩など人間性の揺れを描かなければ、一体ダニエルは何者なのかが見えてきません。

いずれにしても、ダニエルはちょっと変わっているけれど受け入れられていく存在となります。もちろんそこには聖職者は疑いを持たれる存在ではないという大前提があるのでしょう。

同時に6人プラス1人の交通事故の件が明らかにされていきます。

全員が村の者で、ある日の深夜、若者たち6人が乗った車と妻のいる男の車が正面衝突し全員死亡したということです。男が酔っ払って対抗車線へ突っ込んでいったという証言もあり、6人の若者の親族たちは男を恨んでいます。上の画像の献花台も6人の写真しかありません。いつの事故かはわかりませんがそれ以来男の妻は村八分にされており、男の遺骨は未だ妻のもとにあり埋葬されていません。すべて入院中の司祭が決めたことです。写真中央の男がリディアの息子、マルタの兄です。

事情を知ったダニエルは親族たちの怒りや恨みをしずめ、男を埋葬しようとします。これが2つ目の軸となって映画は進みます。

いくつかのことが少しずつ明らかになっていきますが、映画の流れとしてはカットされている部分か多いせいかもうひとつよくありません。

マルタが村の若者たちのたまり場(のような場所、湖のほとりの廃船?)にダニエルを誘います。酒も入り口論口調になっていきます。事故を男の殺人のように罵る者にマルタが挑戦的になっていきます。兄たち皆酔っ払っていたし6人も乗っていたと言います。マルタは何かを知っているようです。

ダニエルが男の未亡人を訪ねますが興奮状態の女に追い返されます。

市長(この村だけではなく広範囲の行政区なんでしょう)がアウディ(意図的に見せている)に乗ってやってきます。ダニエルに疑いの目を向け、また事故の件に触れるなと釘を差していきます。

この市長もかなり中途半端な設定で、市長自身に事故に触れられて困ることは映画の中では何も明らかにされていません。新たに製材所を開こうとしており、その開所式に司祭としてダニエルを招待しています。実際、開所式のシーンがありますが、事故との関連はありません。

ダニエルは親族たちを集めその悲しみを癒そうとつとめます。たとえば、献花台に集まって写真からの怒りや悲しみを体に受け止めそれを吐き出すように叫びます。皆に同じこうをやるよう勧めます。中には恥ずかしいという者がおり、ダニエルは何が恥ずかしいものかと諭します。(その振る舞いはちょっとカルトっぽいです)

ダニエルはマルタとともに再び男の妻を訪ねます。妻は親族たちから送られてきた憎しみと呪いまがいの手紙を見せます。そのなかにはマルタの母のものもあります。妻は夫は禁酒していたと語ります。

この前後のどこかに、マルタがダニエルに動画を見せるシーンがあります。事故の直前兄がマルタに送ってきたものです。そこには6人がラリっている姿が写っています。

(順序がはっきりしないが)市長とともに(だったかな?)製材所を訪れますとそこにはダニエルのことを知る少年院にいた男が働いています。後日、その男が告解にきます。男はダニエルに金銭を要求します。

礼拝の日、ダニエルは唐突に自分は人殺しだと話し始めます。本当とも嘘ともつかぬまま参列者たちはその話に感動し拍手さえします。

聖体祭が行われます。

こんな感じのダニエルです。

ダニエルは募金を募ります。そしてこのお金は事故の男の葬儀に使うと宣言します。親族たちは怒ります。ダニエルは男の妻に送られた呪いの手紙を持ち出しそれぞれ声に出して読むがいいと突き返します。マルタも母親に突き出しています。そして、その帰りだったと思います。村の若者たちに絡まれ逆にダニエルが殴り飛ばします。

その夜、マルタが荷物を抱えダニエルのもとに泊めて欲しいとやってきます。ふたりは愛し合います。そして夜中、騒ぎで目を覚ましたダニエルが外に飛び出しますと、教会の納屋が燃え上がっています。

ただ、これもその後何も触れられずに進んでいます。

(どこかに)例の少年院の男が再び現れダニエルを脅すシーンがあります。ふたりで酒やマリファナ(もかな?)でかなりいっちゃっています。男はダニエルにお金を要求するも、お前の言葉には人を引きつけるものがあるとダニエルを認めている風でもあります。

ダニエルは事故の男の葬儀を決行します。村の中をダニエルを先頭に数人で墓地に向かいます。献花台の前で無言で見つめる親族たち、そのひとりが葬儀の列についていきます。男の遺骨は墓地に埋葬されます。そして皆に葬儀の礼拝を行うと宣言します。

葬儀の前のシーンで、男の妻がダニエルに話があると言い、実はあの夜夫婦喧嘩をし夫を締め出したと言い、その時夫は死んでやる(みたいな台詞)と言い車で出ていったと語ります。

ちょっとどうかと思う流れですがまあいいでしょう(笑)。

(突然)本物のトマシュ神父が現れ、すぐにその祭服を脱ぎ荷物をまとめろと怒りながら「お前はここにいなかったからな」と指示します。またトマシュ神父は葬儀礼拝は自分が執り行うから皆に紹介しろと命じます(ちょっと変な展開です)。しかしダニエルはその場を抜け出し教会へ行き、無言のまま祭服を脱ぎ上半身のタトゥを見せその場を去っていきます。

少年院です。ダニエルが仮退院を取り消され戻されています。映画の導入部分でダニエルに突っかかっていた大柄の男との決闘です。

書いていませんが、映画のどこかでダニエルが少年院に入ったわけが語られています。ダニエルは喧嘩である少年を殺していまい、その少年の兄がその大柄の男ということです。

決闘は激しい乱闘のすえ、ダニエルが男に馬乗りで殴り続けるところで周りのものが止めに入り、「お前はここにいなかったからな」と言われ、そのまま外に飛び出し走り去ろうとしている時、その後で誰かが火をつけたという叫び声が上がり、走り去るダニエルのアップで映画は終わります。

ちょっとばかりよくわからないエンディングです。ただ、この前に村の道路でマルタが佇んでおり、そこに車が来て乗り込んで去るカットがあります。

これです。何かを暗示しているのか、意図的にカットして曖昧にしているのかよくわかりませんが、なんともはっきりしない結末です。

考えすぎ、狙いすぎの感あり

簡潔に書こうとしても結局長くなってしまいました。

やはり意図的にわかりにくくしてあるのだと思います。それだけにひとつひとつのシーンは意味ありげにみえますのでいろいろ書いていますが、結局それらがひとつのテーマに結びついていかないのだと思います。

ただ漠然としたテーマは浮かび上がってきます。本質的な信仰とは何かということでしょう。犯罪を犯しながら悔いた者が赦されないはずはないということでもあり、そうしたカトリック教会への疑問もあるのでしょう。

とは言っても、この映画は基本的にはエンターテイメントを狙っていると思います。それゆえ視点そのものには意味もありますがそれがもうひとつ深まらないのだと思います。言い方を変えればややあざとさが感じられるということです。

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