前作の「ボーダー 二つの世界」では、見る者のざわざわ感を呼び覚ますダークファンタジーで驚かせてくれたアリ・アッバシ監督です。アッバシ監督はその長編2作目にして、2018年のカンヌ国際映画祭ある視点部門でグランプリを受賞しています。そして、この最新作では主演のザーラ・アミール・エブラヒミさんが2022年のカンヌ国際映画祭で最優秀女優賞の受賞です。
ヨーロッパが描くイラン…
題材となっているのは「2000年~2001年にイランの聖地マシュハドで殺人鬼“スパイダー・キラー”が16人もの娼婦を殺害した連続殺人事件(公式サイト)」です。
前作「ボーダー 二つの世界」は北欧の伝承の妖精(?)「トロール」を題材したダークファンタジーでしたが、今回はイランを舞台にした犯罪映画です。まったく傾向が違うように感じますがそんなことはなく、今回も前作同様いやーな気持ちにさせます。
舞台設定の違いはアッバシ監督の経歴によるものでしょう。1981年にテヘランで生まれ、21歳までテヘランの大学で学び、その後スウェーデンに移住しています。その後、デンマーク国立映画学校で映画を学び、30歳ごろから実際に映画を撮り始めています。ですので、この映画もイラン映画というわけではなくデンマーク・ドイツ・スウェーデン・フランス合作となっています。ロケ地もイランではなくヨルダンです。イランでは許可が下りなかったとありますが、そりゃこの内容では下りないでしょう。
主演のザーラ・アミール・エブラヒミさんもテヘラン生まれなんですが、2008年にパリに移住して、現在はフランス国籍のようです。ウィキペディアを読みますと移住の理由は投獄の危険があったからとあります。アミール・エブラヒムさんはイランではかなり有名な俳優さんだったのですが、プライベートな映像が流出するというスキャンダルに巻き込まれて、婚外交渉の罪で起訴され、99回の鞭打ちと懲役刑の可能性があったという記事があります。
その記事には、アミール・エブラヒムさんの言葉として次のようにあります。
I lost my career. I lost my whole life. And at some point, I became traumatised. I was scared to go to the street alone. The authorities did everything to me to just make me more helpless and make me more scared. I think at some point, they wanted me to get to suicide, just somehow remove myself from that society.
(The Arab Weekly)
私はすべてを失った。トラウマに悩まされ、ひとりで外出するのが怖かった。当局はあらゆる手を使って私を孤立させ、社会から排除しようとし、自殺させようとしたかのように感じた。
なんだかこの映画とダブってしまうような話です。映画で大衆が「サイードは無罪だ!」と叫んでいたその逆のような状態だったんでしょう。
アミール・エブラヒムさんはこの映画のプロデューサーやキャスティングディレクターにもクレジットされていますのでこの経験が映画に反映されているのかも知れません。
日常の中のシリアルキラー
この映画は犯罪映画ではありますが、犯人が誰かは最初から明らかにされています。また、その目的が何かを探るようなつくりでもありません。連続殺人の目的、といいますかその行為を行う理由もわかっています。
映画の舞台となっている街マシュハドは、シーア派の第8代イマーム、アリー・リダー(エマーム・レザー(ペルシャ語))の殉教地という宗教都市です。その街で妻とふたりの子どもとともに暮らすサイードは建築業の労働者です。サイードは、娼婦は汚れた存在であり、殺すことは神の意思だと思い込み、娼婦殺害を繰り返しています。
映画では3人の殺害シーンが描かれますが、ほぼ同じパターンで、連れ込んですぐに殺害に及び、女性が身に着けているヒジャブで首を絞めるという殺害方法です。
映画は、苦しむ女性の顔をアップで意識的に見せています。それにこれも意識してのことだと思いますが、女性の化粧が崩れていたり、髪が乱れていたりと見た目の醜さが強調されているように感じます。アッバシ監督はそういうビジュアルを好む監督なんでしょう。
そして驚くのはサイードが女性を自分の家に連れ込んでいることです。もちろん家族がいない時ですが、2人目の場合には殺害後に妻が戻ってきます。サイードは多少は驚きますが、死体を絨毯でくるんで奥へ押し込み、その後妻が求めるままに性行為に及んでいます。
映画が見せようとしているのは、病的なシリアルキラーではなく確信犯だということでしょう。
映画のつくりとしては、殺害後の死体の運び方など、それは無理じゃないのとツッコミどころがたくさんあります。どうやって運んだかは見せないままにバイクに乗せて運んだりしていました。シナリオ段階での詰めがあまいのでしょう。
いろいろ結構雑なつくりがありましたが、それでもあまり気にはならなかったです。本当に生活の一部として女性たちを殺しているという感じでした。ときに気分が悪いとか、悩んでいるようなシーンがありますが、あれはそれこそシナリオの詰めがあまいという意味のサイードの人物像に迷ったことの現れじゃないかと思います。そうしたサイードの人物像の揺れは最後まで続きます。
監視される女性たち…
テヘランからジャーナリストのラヒミ(ザーラ・アミール・エブラヒミ)が連続殺人事件の取材にやってきます。
ラヒミは、テヘランではテレビ局なのか新聞社なのかわかりませんが有能なジャーナリストして働いていたものの上司の男性との関係が噂され左遷なのか解雇なのか、これもはっきりしませんが、とにかくマシュハドの連続殺人事件の取材にやってきたという設定です。
このラヒミの映画的な意味での役割は明快で、ジャーナリストとして事件の真相を探っていくということよりも、ラヒミでさえも社会的宗教的女性蔑視の対象となっていることを見せるためであり、最後には自ら囮になることで娼婦であれジャーナリストであれ女性として地続きであることを明確に示しています。
ラヒミがホテルにチェックインしようとしますと独身女性だからということで満室だと宿泊を拒否されます。ジャーナリストの身分証明を提示しますと空きがでたと平気で前言を翻します。さらにヒジャブから髪が出過ぎていると注意されます。もちろんラヒミは大きなお世話と相手にもしませんが、そうした衆人監視(環視)の中で女性が生きなくちゃいけない社会だということです。
また、ラヒミが情報をとろうと警察署に行き、タバコを吸おうとした署長に駆け引きとしてタバコを提供しますと、署長はタバコを吸うのかと、もうそれだけで好色の目に変わります。後に署長はラヒミのホテルに意味もなくやってきます。明らかにラヒミの過去の噂を知ってその手のことを思い描いて来ているわけですが、ラヒミが帰って!と怒りますと署長は逆ギレして恫喝して帰っていきます。
ところで、警察署で署長が食事でもどうだと誘った次のカットがラヒミがそれらしき建物に入っていくカットだったと思いますがあれはどういうことだったんでしょう?
とにかく、映画的には犯人が誰かも、理由もわかっているわけですから、ラヒミが犯人を追い詰めたりするシーンがあるわけでもなく、いきなり囮となって街角に立つことになります。その後の展開も簡単でサイードがやってきて、多少ラヒミの恐れる様子が描かれたりはしますが、それでもあっさりとバイクの後ろに乗ります。書いていませんが、ラヒミには地方局の記者の協力者がいますので車でその後をつける段取りになっています。しかし見失います。
サイードの家です。ここでもサイードはすぐに殺害に及ぼうとします。しかしラヒミはナイフで抵抗し逃げます。翌日でしょう、ラヒミの証言でサイードは逮捕されます。
神の命による浄化という殺人
で、ここからがこの映画が見せたかった核心と思われます。ただ、ツッコミが甘くどこか曖昧さが漂い、あまり成功しているとは思えません。
基本的な描き方としては、サイードは神の命により汚れたものを浄化したのであり無罪を主張します。検察は死刑を求刑します。弁護士は精神鑑定を求めようとします。法廷の外では大衆がサイードは無罪だ!と叫んでいます。サイードの妻も夫は正しいことしたとゆるぎありません。
という裁判シーンや面会シーンや大衆の抗議シーンなどがあり、そして判決となります。判決は16回(といっていたと思う…)の死刑となんとかと99回の鞭打ちです。
後日、ザイールが収監されているところに裁判官と検事がやってきます。ふたりはザイールに死刑の執行時にはまっすぐにドアへと進み中庭に出れば車が待っていると告げて去っていきます。
そして、その日、ラヒミが執行を見届けたいと求めますが拒否されます。ラヒミが鞭打ちは?と尋ねますと、刑務官がザイールを別室に連れていき壁を鞭で打ちます。ザイールが声を上げています。
なぜこんな漫画のようなシーンを入れたのか不思議でしかたありません(笑)。
刑場へ連行されたザイールはここで解放されるものとドアを見つめます。しかし、刑務官はザイールを後ろ手に手錠を掛け刑を執行してしまいます。このことについてもその後何も触れられません。
で、結局、この後のワンシーンで一気に映画をまとめています。
ザイールの妻がカメラ目線の何の迷いも感じさせない口調で夫は神の命に従って正しいことをしたと話し、続いてザイールの息子が、街のみんなはパパ(といっていたと思う…)は正しいことをした、僕に跡を継ぐように言っている、僕もそのつもりだと語ります。
さて、どうしたらいいのだろう…
この映画が見せようとしていることは、日本にいてはその現実を目にすることではないにしても日々ニュースに触れていれば理解の範囲内であり、また、それは根源的な意味においてはイランだけの問題ではなく日本も含めたどの国でも起きていることだということです。
それはそうなんですが、問題はこうした映画を見る人にはそれはもう十分にわかっていることであり、にもかかわらず、何をどうしていいか何の手立ても持ち得ていないということであり、現実にイランではヒジャブ着用が正しくないと道徳警察に拘束され後に死亡するという事件が発生し、それと同じように語ることが適切であるかどうかわかりませんが、日本では2023年4月15日現在、若い女性が殺害され(たと考えられ…)その加害者と思われる男性が自殺するという、女性をあたかも自分の所有物であるかのように物的に扱う女性蔑視という価値観からのものではないかと思わせる事件が続けざまに2件起きている事実があるということです。
かなり脱線気味ですが、そんなことを考えた映画です。