行き止まりの世界に生まれて

優れたドキュメンタリーはドラマになる

基本的にはセルフドキュメンタリーなんですが、他者であるキアーとザックのふたりにビン・リュー監督自身を投影することで監督自身の意識を客体化し、それにより映画自体を社会性のある客観的な映画に昇華させ、また映画そのものとしても見やすくすることに成功している優れたドキュメンタリーです。

行き止まりの世界に生まれて

行き止まりの世界に生まれて / 監督:ビン・リュー

監督はビン・リューさん、1989年生まれですので現在30歳か31歳です。IMDb を見ますと、2010年くらいから撮影スタッフとして映画業界で働きつつ自らもドキュメンタリーを撮っている方のようです。

この映画は、製作年が2018年で、本人の言葉によれば4年間の映画ということになりますので24,5歳から28,9歳までに撮った映画ということになります。

日本の公式サイトには

「アメリカで最も惨めな町」イリノイ州ロックフォードに暮らすキアー、ザック、ビンの3人は、幼い頃から、貧しく暴力的な家庭から逃れるようにスケートボードにのめり込んでいた。スケート仲間は彼らにとって唯一の居場所、もう一つの家族だった。いつも一緒だった彼らも、大人になるにつれ、少しずつ道を違えていく。(公式サイト

と幼馴染のような記述がありますが、おそらくそれは映画の中の物語であって、実際には、

僕は(略)父親の不在や確執、父親からの暴力のパターン(略)を次のプロジェクトのテーマにしようと決めました。(略)たくさんの場所でスケートボーダーたちを撮影する中で、1人のインタビューが突出していました。僕の故郷ロックフォード出身の16歳のアフリカ系アメリカ人の少年、キアー。(略) その後4年にわたり、キアーと、カリスマ性のある人物で、父親になろうとしている23歳のザックを追いました。(公式サイト

ということだと思います。

リュー監督がキアーとザックに自分の過去を見たということであって、実際には幼馴染というわけではないと思います。映画の中でどう語られていたかは記憶がありませんが、仮に幼馴染と語られていたとしても何ら違和感のない映画です。

その意味では映画のつくり、一番は編集の力ですがとてもうまくつくられています。断片的にしかない過去の映像と、また映画撮影の4年間も断片的な映像しかないわけですがそれらをとてもうまく編集してしっかりとしたひとつの物語として語りきっています。

キアーやザックの過去の映像もあったように思いますがどうだったんでしょう? 幼馴染と思い込んで見ていましたから記憶違いかも知れません。

リュー監督がロックフォードで暮らした時期はキアーやザックとは違うのでしょうが、三人ともにスケートボードが唯一自分自身でいられる時間であり場所であったという点でスケートボードが重要な位置をしめています。

スケートボードで街なかを疾走するシーンもうまいと思います。スケートビデオというジャンルがあることも知りませんでしたので客観的にどうかはわかりませんが、臨場感はよく出ていますし、映画のシーンとして収まりもとてもいいです。

街なかのシーンは人や車もいませんのでロケーション撮影なんでしょう。

映画のテーマとしては、リュー監督自身が語っているように第一義的には「父親という存在、そして暴力」ということになるかと思います。

キアーは16歳のアフリカ系アメリカ人の少年です。キアーは「今まで父親との関係について話したことがなく、初めてのインタビューのときはセーターの袖をいじっていました。彼が父親の暴力について話してくれたとき」、リュー監督は自分自身の過去と重ね合わせたと映画の中で語っています。

リュー監督は、5歳の時に母親とともにアメリカに渡り、8歳の時に母親が結婚した白人の男性から暴力うけていたということです。具体的な暴力についてはほとんど語られませんが、その白人男性との間に生まれた弟に自分が殴られていたことを知っていたかと尋ねたり、映画のつくりとしてはクライマックス的な位置づけになっている自分の母親へのインタビューで、同じく知っていたか、どう思っていたかと、ある種問い詰めるようなシーンがあります。

このインタビューシーンはリュー監督も被写体になっていますので別にカメラマンがいるわけですが、その最後のカット、監督がカットをかけてからため息をつくように椅子の背もたれにもたれかかり上体が半身だけ物陰から見える構図にしたまましばらく監督の横顔を押さえて終えています。よく考えられています。

リュー監督はそうした父親から逃れるために13歳でスケートボードを始め「家にいるよりも、アウトサイダーの集団の中にいる方が何倍も幸せだと気づいた」と語り、19歳の時にシカゴに移りイリノイ大学(シカゴキャンパス?)で学び、23歳で国際映画撮影監督組合に入ったということです。

そして、「セントルイスからフェニックス、ポートランド、その他たくさんの場所でスケートボーダーたちを撮影する中で」キアーやザックに出会ったということだと思います。当然、撮影期間の4年間、常時追っかけているわけではありませんのでキアーやザックのその後については断片的です。

キアーとザックはロックフォードでの同じ時間を共有しているようです。いつの話かはわかりませんが、キアーが通りがかりか何かの折(白人と言っていたと思う)に絡まれた時にザックがかばってくれたと語っていました。

後日、ラストベルトであり、なおかつ黒人の置かれている社会的環境ということでしょうか、キアーはレストランの皿洗いの仕事を見つけて働いています。

また後日、キアーはホール係にかわり、皿洗いよりはいいよと喜んでいます。

そしてラスト近く、キアーの父親はすでに亡くなっている父親の墓を見つけ(実際のところ意味がよくわからないけれど)やっと見つけたというようなシーンで涙をみせていました。

この映画をうまいなあと思うことのひとつに、暴力を具体的に語らずに「父親の暴力」というものをイメージさせていることがあります。

リュー監督とキアーは父親からの暴力にさらされた側ですが、一方のザックは妻に暴力をふるう側、つまり強くあらねばならない(アメリカ白人社会の?)男という価値観を体現する人物として現れます。

もちろん最初からではありません。ザック自身も家庭環境はあまりよくないのでしょう、スケートボード仲間との世界に自分の居場所を見つけているわけですし、キアーをかばったりしています。キアーにとっては憧れの人物と語られたりもしています。

しかし、言葉としては語られませんが、明らかに社会から取り残された白人男性として描かれています。恋人ニナは妊娠しています。子どもの誕生には素直に喜び、日本で言えば高卒認定試験のようなものを受験しようとし、しかし問題そのものがわからないとあっけらかんと語ります。

子どもが生まれ、屋根職人として働き、育児にしても、単に撮影機会の差だとは思いますが、ニナよりも育児シーンは多く描かれています。

しかし、ある時、ニナがザックに暴力を振るわれていると語ります。もちろんそんな画が撮れるわけではありませんのでシーンとしてはありません。逆にザックがニナがキレた状態の動画(映画では音声だけ)を見せるシーンがあります。

実際のところ、ザックの暴力がどうであったのかはわかりませんが、映画としてザックはニナに暴力をふるっていたと感じさせるだけの説得力をもっています。

その説得力がどこから生まれるかと言いますと、どころどころにリュー監督が被写体に問いかける言葉が入ります。ザックの場合ですと、ニナに、暴力をふるわれているのか? と尋ね、ニナがうなずきますと、自分がザックと話してみようかと言い、ニナはやめてと答えます。

当然、リュー監督がザックに話をすればさらに暴力はひどくなるだろうとニナは考えたと、映画を見るものは受け取ります。

リュー監督が弟や母親に自分が父親から暴力をうけていたことを問いただすシーンも同じ手法が使われており、どちらからも明確な答えが得られないところを見せています。

暴力にさらされた側だけではなく、暴力を振るう側の人物を実際にそうであったシーンも描かずにきっとそうであったろうと見るものにイメージさせています。

ザックの暴力やリュー監督がうけてきた父親からの暴力があったかなかったかを言いたいのではありません。

この映画は、リュー監督が自分がうけてきた父親からの暴力を単に個人的な過去の事実としてではなく、ザックやキアーの境遇と重ね合わせることによって社会的問題として昇華させることに成功している映画だと褒めているのです。

そして、ラスト、ザックはニナとは別れた後、屋根職人の責任者となり、養育費を支払いながら新しいパートナーと暮らし、キアーにはスケートボードのスポンサーが2社ついたとそれぞれの道を歩んでいることが示されて終わります。

もちろん、リュー自身は映画監督としての道を歩んでいます。

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