(DVD)理論物理学にもとづく硬派なSFを志向したけれど、軸はやっぱり父娘もの?
こういう「終末、そして再生」みたいな物語はキリスト教世界にあっては永遠のテーマなんでしょう。過去、幾度も描かれてきた物語ではあります。何と言っても、人類再生のプロジェクトの名前がラザロ計画ですからねえ。
ただ、この映画がちょっと違うのは、果敢にも、理論物理学の先端的(なのかな?)な理論を物語に取り込み、映像化しようとしているところだと思います。
ウィキペディアを読んでみても「三次元に於ける不可逆性の時間と重力場、特殊相対性理論(ウラシマ効果)、特異点、ニュートン力学、スイングバイ航法、漆黒の宇宙空間、音の伝達、運動の三法則」などという言葉が出てきます。
難しい、と言いますか、そもそもその言葉自体を知らないものもあります。
でも、意外にも映画はさほど難しくはありません。
その空間によって時間の流れ方が違ったり、ワームホールを通って空間移動したりということは理論としては理解していなくても、いろいろ映画を見たり小説を読んだりしていればすでに見聞きしていることです。ワームホールを抜けて到達する二つの惑星にしても、ひとつは水の惑星ですし、もうひとつは氷の惑星です。どちらも理解の範囲内です。
で、この映画を見て思うことは、はたして、そうした最先端理論物理学の知が映画の軸になっているかです。
水の惑星での危機を逃れた後、次にどちらの星に向かうべきかの判断を左右するのは、アメリア・ブランド博士(アン・ハサウェイ)の恋人に対する「愛情」です。結局、ブランド博士は科学的根拠よりも自らの感情を優先し、それを知るがゆえにクーパー(マシュー・マコノヒー)は感情的にその判断を拒否し、判断を誤ります。
そして、向かった氷の星で繰り広げられる物語はと言えば、ヒュー・マン博士(マット・デイモン)の孤独からくる精神障害を軸にした人間間の争いです。
なぜ、そこに最先端理論物理学の知が生かされずに、極めて非論理的な人間感情を前面に打ち出してくるのか? これは批判ではなく、結局、映画とはそういうものなんだろうということです。
その点は、この映画の全体の軸となっているのが、クーパー(マシュー・マコノヒー)と娘マーフの父娘愛だということと同じです。
もちろん、人間感情に頼らず物語を構築するアプローチもあるはずですが、なかなかそうした映画には巡り会えません。
映像処理の点ではこの映画どうなんでしょう?
DVD鑑賞ですのでインパクトを感じるところはなかったのですが、劇場ですとまた違った印象だったのかもしれません。
ただ、どうしたってこの三次元の世界に五次元の世界を映像化するなんて無理でしょうし、なんて言っちゃいますと身も蓋もなくなってしまいますが、映像的新鮮さというのはそうした技術的進歩(だけ)ではなく、単純に言えば、発想力と見せ方じゃないかと思います。
その意味ではやはり「ブレードランナー」ですし、上に書いた人間感情に頼らず物語を構築するアプローチという点では「2001年宇宙の旅」がそれを成し得ていると思います。
結局、この映画は、理論物理学的論理に物語性を求めるも、何某かの判断で、最も非論理的な人間感情「愛」に求めなくてはいけなくなった映画だと思います。
いずれにしても、こうした映画で語られる終末物語を見ていて思うのは、そもそも自分たちで世界をつくり、自分たちで世界を壊し、失敗したからもう一度やり直そうって、ちょっと勝手すぎない? って思うのは勝手?