君が世界のはじまり

この一昔前感はふくだももこのもの?向井康介のもの?

ふくだももこさんという名前、なにで見たのかなあ?と記憶をたどってみましたら「おいしい家族」を見ようか見まいかと迷った時でした。

結局見なかったのですが、今回は松本穂香さんと脚本の向井康介さんの名前が目に入り見ることにしました。

君が世界のはじまり

君が世界のはじまり / 監督:ふくだももこ

松本穂香さんは「わたしは光をにぎっている」でほとんど喋らないキャラクターが実にうまくはまっていてちょっと驚き、他の役柄も見てみたいと思ったわけです。

その話は後回しにしてまずは映画ですが、始まってしばらくは何に焦点を絞っていいのかわかりづらく、こりゃだめかもと思い始めて中盤、やっとこの5人の青春物語かとわかり(遅い?)、終わってみれば、これ、いつの時代?と妙に古臭く感じた一昔前風の青春物語でした。

原作が、1991年生まれ、29歳(くらい?)のふくだももこ監督自身のものなのにこの古臭さはなぜ? ひょっとして向井康介さんの脚本のせい? とも思ったのですが、原作のひとつのタイトルが『ブルーハーツを聴いた夜、君とキスしてさようなら』ですので、原作の高校生たちも「人にやさしく」や「キスしてほしい」を聴いているということなんでしょう。

そうした一昔前感を一概に批判的に考えているわけではありませんが、考えてみればこの映画の背景となっている大都市郊外の持つ閉塞感や家族の分断または崩壊が時代のキーワードとして浮上してくるのは1995年あたりからで、実際この映画でも冒頭に描かれている高校生の父親殺人のような少年犯罪が社会問題として顕在化し始めたのもその時代です。

つまり、この映画が1990年代後半の物語であると考えれば納得がいくということで、もしそれが原作のものであるならば、ふくだももこさんにとってはどういう環境の中で得られた感覚(価値観)なんだろうと逆に興味がわいてきます。

ブルーハーツにしてもそれこそ向井康介さんの世代の音楽であり、ふくだももこさんがリアルタイムに聴いていることはないわけで…ああ、ということもないかも知れませんね。今は YouTubeがありますから、そういう意味では同時代性という感覚も消えていくのかも知れません。

冒頭、父親殺人で高校生が逮捕されます。誰だかはわかりません。

シーン変わって、えん(松本穂香)と琴子(中田青渚)の通学シーン(だったと思う)になり、琴子のスカートが短いとかで体育会系っぽい教師と琴子の追い掛けっこが学校中で繰り広げられます。やはりこんなコイー人間関係っていつの時代って思いますね(笑)。

といった導入なんですが、冒頭の殺人事件は最後まで一切触れられず、途中、あるいは主要な登場人物の5人のうちの誰かかと(若干)思わせながら進むつくりになっています。結局、その誰でもなく、同じ学校の生徒ではあってもまったく物語には絡んでこない人物という、つまり、誰もがその少年になり得るという意味をもたせようとしたということなんでしょう。

んー、これはダメでしょう。オチをつけるためによくやる手法ですが本筋とは関係ないところでドラマとしてまとめようとしても取ってつけたようにしか見えません。おそらく原作にはない脚本段階の創作なんでしょう。

えんと琴子の関係は思春期の人間関係のひとつのパターンである非対称の関係です。えんはややぼんやりしているように見えても学校の成績ではトップを取り家庭環境も典型的に好ましく両親とも隠し事もなく冗談を言い合うような関係です。一方の琴子の成績はクラスでビリ、頻繁に授業を抜け出し、今は使われていない教室(倉庫?)でタバコを吸ったりしています。母子家庭(だと思う)で母親は飲み屋をやっており放任主義です。

そんなふたりの前にどことなく影のある少年業平(小室ぺい)が現れます。琴子は一目惚れ、猛烈にアタック(死語)します。しかし業平はえんのことが気になっているようです。

業平の父親は、適当に流された描き方がされていますので間違っているかも知れませんが、妻に逃げられアル中のようで、業平はそんな父親を持て余しています。

えんはそんな業平と父親を目撃したり、学校からの帰り道で話すようになり、えんの方も業平のことが気になっていきます。

という三角関係の物語がひとつ、多分こちらが原作の『えん』でしょう。そしてもうひとつの物語が『ブルーハーツを聴いた夜、君とキスしてさようなら』ではないかと思われます。

かなり早い段階で純(片山友希)が鏡に向かって口紅を塗ろうとして戸惑っているのか、なんだかよくわからないシーンがあり、そこに父親が朝食の用意ができたよと呼びに来ますが、純は父親を無視して何も食べずに出ていってしまいます。

その後学園シーンがあれこれあって、あれは何だったんだろうと思い始めた頃にやっと再び純が登場します。

郊外の巨大(かな?)スーパー、今ならイオンを想像すればいいと思いますが、純はその駐車場の車の中で伊尾(金子大地)が運転席の女性と濃厚なキスをしているところを目撃します。

純が伊尾に接近することでふたりの関係が始まります。伊尾が「キスしてほしい」を聴いているということでブルーハーツが使われていました。

車の女性は伊尾の継母で性的関係をもっています。伊尾がその経緯を語っていましたがこれも適当に流されていますので伊尾の不機嫌の説明(言い訳)のようなものです。

純の方の不機嫌は、いつだかわかりませんが母親が出ていってしまっていることです。映画的には出ていったばかりという描き方です。その理由も父親が母親の役割(居場所?)を取ってしまったからというよくわからないことです。あの口紅は母親のものということなんでしょう。

んー、どうなんでしょう、こうした人物設定というは…。

全員家庭に問題ありという描き方です。えんには問題なさそうにみえますが、業平を招いての食事風景のワンシーンはかなり異常ですので多分えんについても意識されているでしょう。

確かに家庭環境が子どもの人格形成に大きく影響することはわかりますが、青春の憂鬱を全てそこにもっていくのは単純すぎます。その点も古臭さを感じさせる要因でしょう。

さらにまずいことにそれらの問題をラストで安易に解決してしまっています。

その話の前にもうひとり登場人物がいました。岡田(甲斐翔真)は琴子のことが好きなんですが琴子は見向きもしてくれないという設定です。岡田には家庭環境などバックボーンがまったく描かれていませんのでこの人物も脚本の創作かも知れません。

ラストへ行く前にもうひとつ、琴子が業平とデートします。しかし琴子によれば、業平はデート中、えんは…とか、えんの…とか、えんに…とか、えんのことばかり話題にしたらしく、それがもとで琴子が怒ってしまい、えんと琴子の関係もまずくなってしまいます。

ということで、ある日の朝、ニュースで高校生の父親殺人が報じられ、それぞれがもしやと思いながら登校し、そしてそうではなかったと確認し、そしてその夜、どういう経緯だったかは記憶できていませんが、えん、業平、岡田、純、伊尾の5人が閉店後のスーパーに潜り込み、あれこれ自分のことや将来のことを語り合った後、ブルーハーツの「人にやさしく」をバンド演奏、熱唱します。映画のクライマックスということです。

そして翌朝、それぞれがそれぞれの思いを胸に帰っていきます。

朝焼けをバックに純がキスしてほしいと言い伊尾がキスします。家に戻った純は夕食を準備したまま食卓で眠る父親をしばらく見、そして椅子に座って冷めたお好み焼き(大阪だからおかずか?)を食べ始めます。目を覚ました父親も何もなかったかのように食べ始めます。

後日、えんは業平から父親が施設に入ったと聞かされます。

授業を受けるえん、遅刻してきた琴子を見つけるや教室から飛び出し琴子の後を追いかけます。逃げる琴子、ふたりは運動場の水たまりで転び、泥だらけになりながら互いの顔を見合わせて笑います。

という、くどいようですが一昔前感漂う青春物語でした。

えんと琴子の関係ですが、実はえんの本名はゆかりです。ふたりは幼馴染なんでしょう、なぜか琴子はえんと呼びます。えんは業平が自分のことをえんと呼ぶことに抵抗を感じます。自分のことをえんと呼んでいいのは琴子だけだということです。

業平のことは気になるのにえんと呼ばれることには抵抗を感じるというわかるようでよくわからないえんの気持ち、こういう気持ちや人間関係こそをもっと深く描くべきでしょう。そうしたところから新しい青春映画の可能性がみえてくるように思います。

松本穂香さんはどうしても「わたしは光をにぎっている」の澪がかぶってしまいます。

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