原作ではなく佐藤泰志本人を描こうとしているようだ
佐藤泰志さんの小説からの映画化は、「海炭市叙景」「そこのみにて光り輝く」「オーバー・フェンス」「きみの鳥はうたえる」に続いて5作目です。
最初の「海炭市叙景」が映画化されたのは2011年、もう10年前です。映画化を機にその原作を読み、すっかりはまって、出版されているものはすべて読みました。
ですので例にもれず(笑)、上のリンク先のレビューでは、これは佐藤泰志じゃないなどとあれこれ勝手なことを言っています(ペコリ)。
原作よりも佐藤泰志本人を描く
で、この「草の響き」、まず見ての感想をひとことで言えば、小説『草の響き』をベースにして「佐藤泰志」本人を描こうとしている映画です。それはそれ、うまく出来ているとは思います。
原作は、東出昌大さんが演じている和雄を「彼」表記としながら一人称のような文体で語っていく小説です。「彼」表記の一人称というのも変なんですが、たとえば、「ランニングの最中は、心臓からくりだされる血液のように、快感が身体中を駆けめぐる気がした」といった感じで「彼」を「僕」と置き換えても何ら違和感のない文体で書かれています。実際、「彼」が一瞬「僕」を語る場面もあります。
ですので、原作の『草の響き』は、「彼」が見たもの、「彼」が感じたこと、そして「彼」の不安や思いが綴られていく一人称小説で、それゆえすごい熱い内容なんです。文庫本にして60ページほどの短編なんですが内容はすごい豊富なんです。
佐藤泰志さんの小説はそうした熱さと、その反面の切なさを併せ持っているものが多く、これまで映画化された4作もそうしたところがあまりうまく描けていなく感じます。
結局、映画で一人称視点を持つことは相当難しいということで、やはり映画の視点はカメラ以外にありえなく、どうしても三人称視点から逃れられないということだと思います。
この映画はその点をかなり明確に割り切っています。原作の熱さを描くよりも、「彼」を第三者視点で描くことに切り替えられています。原作には登場しない「妻」を登場させているのがその典型で、それによって、原作の「彼」を第三者視点でみるとこの映画の「和雄」かもしれないとは思えてきます。
さらに、和雄に、原作ではその予感さえ感じさせない自殺未遂までさせています。明らかに佐藤泰志さん本人を反映させたものでしょう。
この映画がそれなりにうまく出来ていると感じられるのはその点で、佐藤泰志さんの小説の多くが佐藤さん本人を反映したものであること、そして、この小説『草の響き』は特にその傾向が強いことを考えれば、この描き方は正解なのかもしれません。
割と原作に忠実
原作の「彼」の生活拠点は八王子です。大正天皇の墓云々がでてきますので武蔵陵墓地のことだと思います。映画では函館に変えられています。佐藤泰志さんが一度東京から函館に帰っていることが使われているのだと思います。それに映画化のコンセプトとして函館で撮るということもあるのでしょう。
和雄(東出昌大)が自立神経失調症の診断を受け、医師から走ることを勧められるあたりはかなり忠実に使われています。病院に付き添っていく幼馴染の研二(大東駿介)は、原作では3年前にプールで知り合って親しくなる友人です。英語の教師であることは原作通りですし、ふたりのやり取りもかなり映画で使われており、幼馴染であることをのぞけばほぼ原作通りです。
和雄が大学の学食で働き始め、研二と一日に皿を何枚洗うと計算して笑いあうシーンも原作通りです。
和雄がランニングの途中で出会うスケートボードの少年たちは、原作では暴走族で、箱乗りやオートバイで旗をもって爆走したりするかなり大人数の集団です。そのリーダー(的存在)はアキラ、映画では彰(Kaya)となっており、この人物もかなり原作の人物像が忠実に守られています。ただし、最初に書きましたように一人称小説ですので「彼」が見るもの以外の記述はありません。ですので、高校のシーンはすべて創作されたものです。最初に彰が和雄の後をついて走ってきたときに「しばらくバスケの練習をサボっていたからな」と言っていますのでそこから膨らませたのでしょう。
もうひとりの少年、弘斗(林裕太)は、原作では名前はなく暴走族の旗持ちです。彰が自殺した後の振る舞いは原作通りです。爆竹が花火に変えられています。
弘斗の姉、恵美(三根有葵)は創作された人物です。原作では明確な存在としての女性は登場しません。漠然と女の子と表現されるだけです。彰が自殺した後のシーンで弘斗に肩車されていましたが、その情景は原作にもあります。
原作でも彼らがスケートボードをやっているらしき記述がありますので、これもその記述から膨らませたのでしょう。映画の時代設定は現代でしょうから、さすがに暴走族はないとも言えます。
アキラの自殺については、「彼」は毎日のようにアキラたちがたむろしている場に出会うわけで、ある日からアキラの姿が見えなくなり気にしていたところ、旗持ちの男が「死んだよ」「ベランダからぶら下がったんだ」と言うだけです。もちろんそれに対する「彼」の思いはいろいろ語られるわけですが、アキラがどういう人物であるかは「彼」の見た目で語られるだけです。
この『草の響き』の初出は『文藝』1979年7月号です。佐藤泰志さんが亡くなったのが1990年、11年後ですが、「遺作となった『虹』の原稿を編集者に渡した後、国分寺市の自宅近くの植木畑で首を吊って自殺(ウィキペディア)」したことを考えますとやるせないですね。
病院の医師との会話はほぼ原作通りに使われています。
原作との違い
妻、純子(奈緒)の創作です。
すでに書いたように、「彼」を客観的に(ではなく、外側から?)見る人物を置くことになり、これでもう原作と映画はまったく違ったものになっています。
誰であれ、夫が自立神経失調症であると言われた場合、妻としてどうすればいいのか検討もつかないと思います。ましてや、この映画の和雄は、ひどい状態になった時に純子ではなく研二を頼っています。
純子はそうした納得のいかなさを表に出すことなくできるだけ何事もないように対しようと心がけている人物になっています。過剰に気を使うことなく、かといって日常的な不満(ちょっと違う)は不満として和雄にぶつけています。洗濯物を取り込んでくれなかったことや、犬の食事やたばこのことを注意をするシーンとして表現されています。
この映画では、そうした描き方から和雄の自立神経失笑帳の原因のひとつとして夫婦関係が浮かび上がってきます。もちろん夫婦関係に問題があるという意味ではなく、対人関係の最も濃密な関係としての夫婦関係という意味ですが、映画のラストでは、純子は東京へ帰っていくわけですから、どうしても病の直接的原因に見えてしまいます。
純子の「私が重荷?」なんて台詞が入っていました。
原作には、「彼」自身の語りとして、以前の職場で孤立した自分を感じる描写があります。「彼」は、左翼系の出版社で活字組みの補助のような仕事をしていたのですが、次第に孤立感を深め、同僚たちが自分を白い眼で見ている妄想(かどうかは一人称なのでわからないが)にとらわれていきます。そして、現実に作業を続けることがままならなくなり、職場の医務の紹介で精神科医院を訪れ、その診断により走ることを勧められるという流れになっています。
そうした原作にある職場での対人関係の描写が一切なく、対人関係が夫婦関係に置き換えられていることは、実際に佐藤泰志さんにそういうことがあったのかどうかまではわかりませんが、やや疑問に感じるところです。ましてや子どもが出来たことで余計に夫婦間に隙間が生まれたかのようにみえるのは原作とはまったく違った世界です。
そうしたところからこの映画は『草の響き』よりも「佐藤泰志」本人を描こうとしているということになります。あるいは、脚本家の現実の社会感覚が反映されているのかもしれません。
そしてもうひとつ、原作と決定的に違うことがあります。「熱さ」です。
とにかく、原作にはほとばしるような熱さがあります。走ることで「生」の実感を感じ始めている記述が続きます。そして、「彼」が走りながら見る風景や人々へのこだわりのようなものはかなり重要で、それが映画ではすっぽり落ちてしまっています。
和雄が走っているシーンの撮り方は、引きの画を横切り、並走して移動し、正面からの画で遠近を出すといったごく一般的なものばかりです。いわゆるランニングシーンを撮っている以上のものはなく、和雄が何を見ているかにはまったく注目していない映画です。
「走っている時視界は洗われたようになって物がよく見え、感じることで直接外界に触れることができるという体験は真新しかった」
和雄がこれを感じていることがまったく描かれていません。雨に濡れた参道の砂利道の音、ずっと続く草むら、のら猫、公園沿いの車道に並ぶ車、カーセックスなどなど…、ああまたもやこれは佐藤泰志ではないと言い出しそうです(笑)。
いやいや、熱さがないと言うだけで、外から見た『草の響き』が丁寧に描かれているとは思います。
東出昌大さんと奈緒さん
奈緒さん、先日「君は永遠にそいつらより若い」で始めて見たのですがとてもよかったです。この純子もいいですね。渋い演技をします。こういう俳優さんは好きですね。
東出昌大さん、まあよくもなく悪くもなく(ペコリ)ですが、それにしても途切れなく声がかかる俳優さんですね。唐田えりかさんは干されたような状態になっているような気がしますがどうなんでしょう。もしそうならあまりに男女差別が過ぎやしませんかね。
まとめ
映画としてはまとまってはいますが、なんだか物足りないです。
やはり、走ることにこだわるべき原作じゃないかと思います。走る人間を見ることではなく、走ることによって見えてくるものです。脚本家も監督も、『草の響き』のそこには映画的エッセンスを感じなかったということなんでしょう。