窮鼠はチーズの夢を見る

ボーイズラブは純愛の幻を見る

最近では映画を見ますと、これを女性で描いたらどうなるんだろうとか男性で描いたらどうなるだろう?と必ず考えてしまうようになっており(笑)、この映画でも今ヶ瀬を女性で描いたらどうなるだろう?と考えてみましたら、

修羅場だ!

となる凄い映画でした(笑)。

窮鼠はチーズの夢を見る

窮鼠はチーズの夢を見る / 監督:行定勲

しかし、映画はまったく修羅場になどなっておらず、美しい(?)恋愛物語になっています。

なぜなんでしょう?

話が堂々巡りになってしまいますが、今ヶ瀬が男だからです。

この話、長くなりそうですので(笑)先に映画の評価を書いておきますと、とてもよくできた映画です。とにかく俳優、大倉忠義さん、成田凌さん、ふたりがとてもいいですし、行定勲監督の演出も的確です。ふたりだけではなく登場人物全員ですが、目(視線)での演技を徹底して使っています。その演出方針が俳優にきっちり伝わっています。

それもあってか言葉に頼らずに人物の心の動きがよく表現されています。原作の漫画は知りませんがシナリオがいいということだと思います。脚本は堀泉杏さん、行定監督の会社の方ですね。ひょっとして同じ会社の伊藤ちひろさんの別名? 

音楽は半野喜弘さん、ジャ・ジャンクー監督の「山河ノスタルジア」の音楽を担当されており、監督としては「雨にゆれる女」「パラダイス・ネクスト」2作品がある方です。映画の邪魔をしない音楽を書く方です。

同じような意味で今井孝博さんの撮影もしっくりきています。室内や夜のシーンが多かった記憶ですが、さり気なく美しかったです。

ということで、全体のバランスがとれており映画としての完成度は高いです。

ただし、この映画は結末がくどいです。残り20分くらいでしょうか、もうここできれいに終えておいたらと思ってもまだあります。さすがにこれで終わりでしょと思ってもまだあります(笑)。

と見ている時はそう思ったのですが、考えてみれば、恋愛とはそもそもくどいものですのでそこまで考えられた結末なのかも知れません。どうなんでしょう?

で、話を戻してこの映画は何なのかということですが、この映画には同性の恋愛は登場しますが、それは性的マイノリティとしての同性愛を描いているわけではなく、ゲイの男性がヘテロの男性を追いかけ、そこに女性が絡んでくることで成立する三角関係を描いた映画です。

ですので、今ヶ瀬を女性にすれば、ひとつ目の三角関係は恭一をめぐるストーカー女と元カノの争いということになり、ふたつ目の三角関係は同じく恭一をめぐるストーカー女と婚約者の争いということになります。もしこの設定なら元カノも婚約者も絶対に引き下がらないでしょう。そして修羅場です。

なぜ恋敵が男だと修羅場にならないのか? 

つくる側も見る側も女性が男性を相手に男性を取り合う関係をマジではイメージできないからでしょう。ヘテロセクシュアルの女性にとって男性と男性を取り合う関係など想定外でしょうし、現実社会のマジョリティの価値観から想像すればおそらくプライドが許さないでしょう。

本当はそれをやりきれば新しい恋愛の地平が開かれたかも知れないと思いますし、あるいは「愛」の本質そのものが見えてきたのかも知れないとは思います。

この映画はその恋愛マジョリティの価値観を利用した(批判ではない)映画です。で、それで何が見えるかです。

大伴恭一(大倉忠義)は浮気をしています。ある日、大学の後輩今ヶ瀬渉(成田凌)があらわれ、自分は興信所で働いており恭一の妻の依頼で身辺調査をしている、自分と寝てくれれば(キスだけと言っていた)何もなかったと報告すると条件を出します。

愛とは、このストーカー行為と脅迫を正当化できてしまうということです。

映画としては、物語のこの前段はあまり効果的ではありません。恭一の人物像を描くパートかと思いますがもう少しダメ男にすべきでしょう。大倉忠義さん、それ以降は結果としてとても内省的に見えてとても良かったのですが、シナリオ上はもっとダメ男だったのではないかと思います。

ひとり住まいを始めた恭一の前に元カノ夏生(さとうほなみ)が現れます。夏生は大学時代から今ヶ瀬が恭一に好意を持っていることに感づいています。でもヘテロ同士ゆえの余裕があります。

共に飲んだ日、勝ち誇ったかのように酔いつぶれた恭一とともに恭一宅へ向かいますとそこから今ヶ瀬が出てきます。普通はこれで終わりますが、夏生は引き下がりません。

この映画には修羅場がないと言いましたが、ここはある種修羅場ですね。夏生は恭一と今ヶ瀬を呼び出し、恭一に私と今ヶ瀬とどちらを選ぶのと迫ります。

映画ですから恭一は今ヶ瀬を選びますが、このシーン、実はこの映画の中で一番いいシーンでした。他のシーンはファンタジーですがこのシーンだけはとても現実感がありました。面白かったです。夏生は恭一に、あんた戻れなくなるよなんて言っていました。

性的マイノリティに対する差別的な台詞ではありますが、深読みすればファンタジーに囚われて現実に戻れなくなるという意味でしょう。ヘテロセクシュアルの人物にとってはゲイ(他の異性愛も含め)はファンタジーです。

恭一と今ヶ瀬の関係はどんどん進みます。ただ恭一のセクシュアリティは曖昧です。すでに今ヶ瀬とも挿入を伴うセックスをする関係になっており、前後がはっきりしませんが、ある時自ら攻めにまわるようにもなっています。

それと共に映画は今ヶ瀬にステレオタイプな女性を演じさせるようになっていきます。くっついたり離れたりの連続ですのでどのシーンだったかは記憶がありませんが、そばに置いてと今ヶ瀬に言わせたりしています。

こんなシーンもあります。恭一が、いなくなった今ヶ瀬を探しにゲイクラブへ行くシーンがあります。恭一は違和感、もっと言えば抵抗感をもつシーンになっています。

この映画がゲイを描くことを意識していない、いやむしろそうじゃないと宣言しているのかも知れませんが、いずれにしてもこの映画はヘテロセクシュアルの価値観で同性の恋愛を描いていることになります。

男女の恋愛の女性を男性が演じているだけです。カウンターチェアを使った演出もその現れでしょう。

恭一の会社の後輩たまき(吉田志織)を交えた三角関係、恭一に自分以外の女性がいることを知ったたまきには、それでもいいの、時々会ってなんて言わせていました。

たまきをやっている吉田志織さん、何かで見たなあと思い出せなかったのですが、「チワワちゃん」でした。

結局、恭一は婚約までしたたまきを捨てて、いなくなってしまった今ヶ瀬を待つことで終わります。いや、間違っているかも、ラストシーンかと思えばまだあるかという連続でしたので忘れてしまいました(笑)。

まあいずれにしても、ひとことで言えば元カノ(カレ)が忘れられずに喪失感を抱える男の物語ということだと思います。

そのベタな話がすばらしい俳優と監督とスタッフによって美しい恋愛映画に仕上がったということでしょう。