映画のつくり手たち自身に従来の社会規範が内在化しているのでは…
何も知らずに見た映画です。パク・サンヨンさんの『大都会の愛し方 대도시의 사랑법』という短編集の一作『ジェヒ』を原作としているとのことです。「ゲイの恋愛をリアルに描きながら、普遍的な要素を重ねて(LONELINESS BOOKS)」いると紹介されています。
この小説は2022年の国際ブッカー賞のショートリストに入っています。川上未映子さんの『ヘヴン』も候補になっていた年です。今年2025年は川上弘美さんの『大きな鳥にさらわれないよう』がショートリストに残っていたんですが受賞は逃しています。

ラブコメ展開は吉と出ているか…
映画のつくりがラブコメ的展開ですので、ああ、見る映画を間違えた…と思いながら、その実、楽しんできました(笑)。そういった映画が好みの方には受けはよさそうです。
社会規範や社会的価値観にとらわれることがなく自分の意志にしたがって生きようとするジェヒ(キム・ゴウン)とゲイであることを隠して生きようとするフンス(ノ・サンヒョン)がルームシェアすることで巻き起こる騒動(ちょっと違うけど…)が描かれていきます。話は大学時代からジェヒが結婚する10年くらいにわたっています。
監督はイ・オニさん、過去の作品にある2003年製作の「アメノナカノ青空」のタイトルに記憶がありますので見ているかもしれません。それ以後は2017年の「女は冷たい嘘をつく」がクレジットされているだけです。
ジェヒのキム・ゴウンさんがとてもよかったです。フンスのノ・サムヒョンさんはこの役にあっていないように思います。ドラマのパターンとしては悩める男性の前に自由奔放な女性が現れて男性が変わっていくということだと思いますので(違うのかな…)、存在感として自信のあり過ぎ感が気になります。
ジェヒとフンスはフランス文学専攻の学生です。ジェヒはフランス育ちだったか留学していたかの設定です。
突っ込みどころではないことはわかっていますが、こういう設定にほとんど意味がないことがラブコメ的だということをちょっとだけ言っときます(笑)。フランスにはゲイが多いとかフランスでは誰も気にしないとかいうための設定ですかね。
ついでにもうひとつ、この後、フンスとフランス人教師が街なかの路上でキスをするシーンが入るのですが、フンスは隠したいんじゃないの? なんて疑問を持っちゃいけない映画です(笑)。
とにかく、ジェヒがそのフンスのキス場面に遭遇したことから二人の関係が始まります。学内ではフンスが男性とほにゃららとかの噂話が飛び始め、それをジェヒがフンスと付き合っているふうに装います。一方のジェヒにも尻軽女(そんな字幕だった…)などと揶揄する言葉が投げつけられますが、ジェヒの方はそれを自ら撥ねつけます。
理不尽な社会規範には真っ向から立ち向かうジェヒ、そして、あまり社会と関わりを持ちたくないフンスという二人です。
フンスはゲイを隠したいと思っている?…
その二人がルームシェアします。
このルームシェア、あまり説得力ないんですよね。あの住まいに学生であるジェヒが一人で暮らしていることもなぜだろうと思いますし、それに、なぜふたりにルームシェアする必要があるのかもよくわかりません。気があったからでいいとは思いますが、いくらラブコメでもそれならそれでもう少し丁寧に描かないとダメじゃないですかね。ひょっとしてクラブのシーンとかにそういう意図があったのかな。
ツッコミどころじゃなかったです(ゴメン…)。これ以降は二人の愛の遍歴(笑)が描かれていきます。
フンスは愛というものを信じないと言って憚らず、その場限りの関係を繰り返しているようです。しかしあるときスホと出会い、そのスホは会いたいと思う気持ちは変えられない(みたいな感じ…)と言い、フンスとの真剣なつきあいを望んできます。
原作はゲイの男性の話のようですが、映画はどちらかといいますとジェヒの映画になっており、このフンスとスホの関係も特に深まることもなく、ジェヒのシーンの合間にときどき挿入されるような印象になっています。
結局、フンスが重いんだよと別れを告げ、その後、フンスが会いたいと思ったときにはすでにスホには別の相手がいたということで終わっていました。
フンスの人物像にかなり重要なことは高校生の時に男の子とキスをしているところを母親に見られたことで、その後母親はそのことに触れることなく宗教にハマっていったという点です。母親はゲイであることを病気だと言い、ジェヒと同棲していると勘違いし病気が治ったと喜びます。
フンスにはこの母親のことが相当重荷になっているとの設定じゃないかと思いますが、映画はさらりと流しています。実際、映画のフンスには隠そうと思っている気配はなく結構堂々としています。
レイプ、中絶、暴力をさらりと流していいのか…
ジェヒの方はとにかく自由奔放に生きているという描き方がされています。印象としてですが、その生き方を酒やタバコで表現しているように見えてあまりいい感じはしません。
学生時代の相手はマザコンの男性でジェヒが主導してセックスに及ぼうとしますがそこに母親が帰ってくるというちょっと恥ずかしくなるような展開を使っていました。
このことからだったでしょうか、ジェヒが飲もうとフンスを呼び出すのですが、フンスに何かがあって(忘れた…)来られず、ひとりで飲み酔いつぶれます。そして、ナンパ男に薬を盛られてレイプされます。
目覚めたジェヒがその場を逃げ出すことで済ましていましたがあれでいいんでしょうか。ラブコメでいいと思っているのならこんなシーンを入れてはいけませんし、このシーンを入れるのであればつくり手の意図を明確にすべきです。さらりと流すことではありません。
その上、映画ははっきりとは語っていませんが、これでジェヒは妊娠していると思われます。そして中絶します。こんな描き方でいいわけがありません。
もうひとつ、この後、ジェヒは就職し、弁護士の男と付き合うことになるのですが、その男はジェヒがフンスと一緒に暮らしていることを知り、暴力をふるいます。その描き方はその男の隠された本当の姿が現れたようにつくられています。
なのにです。交番の警官の前でその暴力行為を問題にするのではなく、ジェヒとフンスは男女関係にあるだの、いや違うだのと3人に言い争わせて、挙句の果にその場でフンスに自分はゲイだとカミングアウトさせるという展開にしているのです。
映画のつくり手たちの価値観にかなり引きます。
男女間に友情は存在するか、ってか…
気を静めましょう(笑)。
ジェヒは就職し、男性優位社会への反発シーンが2、3あり、それを見た同僚の男性がジェヒに好意を持ち、それを知ったジェヒもまんざらではなく、そして付き合うようになり、結婚します。
結婚式の日、ジェヒの親友と紹介されたフンスが踊りながら歌って映画は終わります。
映画冒頭に、ビルの屋上でウェディング姿のジェヒとフンスのシーンがあり、互いに腕の J.H のタトゥを見せあうシーンが入っていました。ジェヒ Jae-hee の頭文字ですね。その経緯は映画前半に入っています。
なんだか本質的なことから逃げているように感じます。
結局のところ、この映画はジェヒとフンスがソウルメイトであることを言ってるのだと思いますが、この描き方は古くからある男女間に友情は存在するかという問いとほぼ同じであり、それをゲイというセクシュアリティを使ってその問いの核心を避けているだけです。
その意味では、男性は女性を性的対象としてみるものという固定観念の裏返しであり、すでに書きましたようにレイプ、中絶、いわゆる DV と言われる暴力の描き方の価値観と同様のものが潜んでいるということです。
早い話、映画のつくり手たちにも従来の社会規範が染み付いており、それに気づいていないということです。
この映画をジェヒのもがきの映画と取れば、いまだ女性はもがくこと以外にこの社会に異議申し立てすることができないという現実の現れでもあるということだ思います。
おそらく原作はこんな内容ではないでしょう。
とにかく、キム・ゴウンさんがとてもよかった映画です。