つくり手の意志がみえなければ映画にならない
地の果てのイオンシネマまで行って見てきました。エンドロールの配給(協力?)でしたかにイオンシネマの名が入っていたような…。そういえば「ROMA/ローマ」も配給すっ飛ばしてイオンシネマが(多分)Netflixから買ったとか、Netflixが売ったとか、あるいは配給システム崩壊の前触れ?
「岬の兄妹」、結構評価も高く面白いらしいとの噂を聞きつけて見に行ったのですが、正直なところ、電車とバスを乗り継いでまで出掛けたことを後悔させられました。昨年2018年のSKIPシティ国際Dシネマ映画祭で国内コンペティション長編部門の優秀作品賞だったようですが…。
まず、内容以前にと言いますか、いやいや、当然内容も関わってくることですが、映画に緊張感が感じられません。
そこがいいんだよとか、悲惨(ともいえるよう)な環境に置かれた兄妹を描いているのに暗さがないことがいいという向きもあるんでしょうが、そういうことではなく、緊張感がないということは、映画に意思が感じられないという意味で、つまり、作り手の思いが伝わってこないということに等しく、まあ言ってみれば、放り投げているような映画という感じがします。
さらに突っ込んだ言い方をしますと、あなた自身はどう思うのかはっきりしてよということでもあります。ドキュメンタリーならいざ知らず、自分自身が考えた物語なわけですから、どう思うのかの視点がないのならつくる意味はないんじゃないかということです。
兄は片足に身体障害があり、日常的に引きずるようにしか歩けません。妹は知的障害があり、意志の疎通がかなり困難のようです。
ある時、妹がいなくなります。探し回る兄ですが見つかりません。妹を保護していると電話があり、行ってみますと、見知らぬ男が妹にご飯を食べさせたと言っています。家に連れて帰ってみれば、妹に性行為の形跡があります。
兄は、本人がいうには障害のせいでリストラされます。内職で食いつなごうとしますが生活に窮します。電気も止められ、残飯をあさります。
兄は、妹に売春をさせようと考えます。最初は恐る恐るですが次第に自作カードまで作り、お客もついてきます。1時間1万円のデリヘリです。
兄の何人かとの交渉や妹の性交渉、正しくは男たちの買春行為が描かれます。
運送トラックがたくさん駐車しているところで仮眠中のトラックドライバーに声をかけ、知的障害があるからという意味かと思いますが、こんな女!といった言葉で断られたり、場所を移し町中で通行人に声をかければ、地のヤクザに見つかり、妹がレイプされ、その様子を無理やり兄は見せつけられるシーンもありました。他に、糖尿病の老人、初めての経験の高校生、そして、小人症の人、こんなところだったと思います。
これらの人物設定がいかにもドラマを作りたいがためにしかみえません。特に小人症の人とは複数回あり、互いに心を通わせるようなシーンを入れたり、さらに、妹が妊娠をし、どうしたらいいかと考えた兄が、その人に妹と結婚してくれないかと迫るシーンを入れています。
小人症の人には、僕だから押し付けるのかと言わせていましたから、当然そこには、弱者排除が意識されているわけで、問題はその論理に対して映画のつくり手がどういう立ち位置を取るかです。たとえば、人間社会そのものに潜むその意識構造に対して怒りを持つとか、あるいは自分自身にもそうした意識があるかもしれないと自己批判的に考えているとか、そういう視点こそが映画のつくり手に求められることだと思います。
映画は、妹に堕胎させ、ラスト、再び冒頭の妹がいなくなったシーンに戻しています。おそらく、また同じことが繰り返されるだろうことや貧困の悪循環を暗示しているのだと思います。
このラストシーンが問題なのは、つくり手がそのことを絶望的に感じているようにはみえないことです。
妹に売春をさせることにたいして兄の葛藤がないこともそうですし、妹があたかも性交渉に喜びを感じているかのように無批判に描いていることも気になりますし、そもそも妹には妹の意思表示があるべきなのに映画は全くそのことに意識がいっておらず描こうともしていません。
とにかく、これは脚本、監督の片山慎三さんが考え出した物語であるわけですから、こんな物語があるよというだけでは映画にならない、つまり、それはもう誰にでもわかっていることで、それに対してどういう立ち位置を取るかがみえなければ映画にならないということです。