湖の女たち

原作の散漫さがうまくまとめられているが、問題点の解決には至らず…

吉田修一著『湖の女たち』の映画化です。吉田修一さん原作の映画はほとんど見ていますが、どの映画もあまり出来がよくありません(ゴメン…)。その多くは実績ある監督によるものなのに不思議ですね。この「湖の女たち」の監督は、2013年の「さよなら渓谷」以来の吉田修一作品映画化2作目となる大森立嗣監督です。

湖の女たち / 監督:大森立嗣

原作を読んでから見ると面白い(かも?)…

原作を読むとわかることですが、この小説、かなり散漫な内容なんです。「もみじ園」の事件に始まり、731部隊の人体実験の残像、血液製剤に関わる汚職、それを追う雑誌記者、そして刑事と介護士の倒錯的な性的関係と次々に問題が提示されていくのですが、全体として一体どこに向かっているのかわからないままエンディングに突入していくのです。週刊誌の連載小説ということが影響しているのかもしれません。そのあたりのことは次の記事に書いています。

という原作を知っていますと、映画は、いろいろ微妙に感じるところはあるにせよ、とてもうまくまとめられていると感じます。逆に言いますと、原作を読んでいないとよくわからないんじゃないかとも思います。

時の事件と読者サービス…

吉田修一さんは機を見ることに長けた小説家です。

この小説は週刊新潮に2018年8月から連載されています。当時ニュースで大きく取り上げられていた事件に「湖東記念病院事件」という冤罪事件があります。事件自体は2003年に起きたものですが、2017年に再審請求が認められて、その後自白は強要されたものだとして無罪が確定しています。

湖東記念病院(滋賀県)に重篤な症状で入院していた患者B(72歳)に装着されていた人工呼吸器のチューブを引き抜いて酸素の供給を遮断して呼吸停止状態に陥らせて、急性低酸素状態により死亡させて殺害したとして、看護助手として勤務していた女性Aが殺人罪で起訴され、2007年5月に確定した有罪判決が、再審において無罪となったえん罪事件。

湖東記念病院事件:日本弁護士連合会

この映画の基本的な軸となっている高齢者介護施設「もみじ園」で起きた100歳の市島民男死亡事件そのものです。警察の強引な捜査手法も、もちろん映画はフィクションですが、この冤罪事件が発想の源になっていると思われます。

そしてもうひとつ、2016年7月26日に相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で入所者19人が殺害されるという「相模原障害者施設殺傷事件」が起きています。映画の最終盤、事件を追う記者が介護士の孫のツイッター(だったか?…)の履歴にこの殺傷事件のニュース記事をシェアした投稿を発見しています。

その孫たち高校生のバードウォッチンググループはこの津久井やまゆり園の事件に触発されて市島民男を殺害したということであり、そうした子どもたちの意識には社会全体の価値観が反映されていることを戦時中の子どもたちの行為に重ね合わせることで表現しているということになります。

ですので、少なくとも731部隊のことは理解していないとこの重ね合わせが意味不明な飛躍に見えてしまうということはあります。このことも原作が週刊新潮の連載であることが影響しているのかも知れません。週刊新潮の読者層は中高年層ですので何らかの形で一度や二度は731部隊のことを目や耳にしていると考えられます。

また、琵琶湖とハルビンの平房湖という湖を介しての連想はとても文学的であり、そうした作家的直感がやや強引ともいえる731部隊を持ち出すことへの後押しになっているのだと思います。

この原作、そして映画を理解する上で残る疑問は、濱中圭介(福士蒼汰)と豊田佳代(松本まりか)の倒錯した性的関係は一体なんなのかです。これは原作でもかなりわかりにくい関係で、私はこれも読者層へのサービスではないかと勘ぐっています。まあいくらなんでもこの時代、性的な描写でつろうなんて下世話な発想はないとは思いますのでそういうことではなく、この小説、まっとうな人間であれば、ふたりの性的関係には嫌悪感を感じるように書かれています。つまり、人間、特に男性ですが、人間が持つ根源的な支配被支配の関係への欲望とそれへの抑制が意識されているのではないかということです。

支配、被支配の関係…

長々と原作について書いてしまいましたが、とにかく、この映画はとっちらかった原作のあれこれを、原作のもっているテーマ的なものを守りながらうまくまとめ上げています。

この映画の基本軸はあくまでも「もみじ園」での事件ですが、濱中圭介と豊田佳代の関係がその裏にある人間関係を象徴していると考えれば何かが見えてくるような気がします。

圭介と佳代の関係は明らかに支配被支配の関係です。圭介に支配欲求が生まれるのは上司である伊佐美(浅野忠信)のパワハラや人間性を完全否定する捜査手法による反動として描かれています。

話の流れからはそれますが、この映画の出来がよくない一番の原因は伊佐美を演じている浅野忠信さんの過剰さです。それが演出なのか浅野忠信さんの演技にまかせた結果なのかはわかりませんが、いくら支配被支配の関係をみせるにしても刑事の行為としてはやり過ぎですし、さらにそれが以前自らの正義を打ち砕かれたがゆえとしていることにも強い違和感を感じます。

とにかく、この映画、男たちの暴力的マッチョイズム(マチスモ)が過剰なまでに強調されています。伊佐美をはじめとする警察署の男たち、そして出版社の男たち、びっくりするくらい横柄ですし、暴力的な言葉遣いで他者を支配しようとします。

そうした支配被支配の関係が象徴的に圭佑と佳代で描かれているのではないかと思います。

支配被支配の関係とはひとことで言えば人間性の否定です。731部隊の人体実験をまねる過去の子どもたちも高齢者を殺害する現在の子どもたちも目の前の人間を人間と見ていません。731部隊の隊員が人間を「丸太」と呼び、それを子どもたちがまねる、バードウォッチングの高校生たちが高齢者を殺害することもそれと地続きであると考えれば、それが表面化する空気が世の中に存在しているということになります。

で、問題は、確かに圭介と佳代の関係は支配被支配の関係ではあるのですが、果たしてそうした人間性を否定するものと同様のものとして考えられるかということです。それに、言葉としては支配被支配として理解はできても、映画として全体の流れの中にうまく収まっているとは言い難いということです。これは映画だけの問題ではなく原作自体が抱える問題であり、映画はそれを引きずっているということになります。

解決されない佳代の立ち位置のあいまいさ…

それは佳代の立ち位置の曖昧さに現れています。

なぜ佳代は圭介に吸い寄せられていくのか、そしてなぜその関係に甘んじているのかが見えてきません。おそらく松本まりかさんにもわかっていないでしょうし、大森立嗣監督にしても試行錯誤、松本まりかさんなら何か見せてくれるのではないかと期待したのではないかと思います。

松本まりかさんが迷っていることが映画から伝わってきます。SM的性的関係で演じればいいのか、あるいは何らかの精神的抑圧のなせることなのか、迷いつつ演じているように見えます。

これは大森立嗣監督の責任でしょう。原作と同じくこの決定的な問題が映画でも解決されていないということです。

最近の吉田修一さんは週刊誌や新聞の連載を後に単行本化する流れが多くなっています。まもなく公開される「愛に乱暴」も、来年2025年公開予定「国宝」も連載小説です。『愛に乱暴』は読んでいませんが、『国宝』はこの『湖の女たち』よりはまとまっていますがそれでもどこか煮えきらなさを感じる小説ではあります。