ジョージアの神話的、かつ寓話的な美しい映画
とにかく美しく、神話的で、それでいてといいますか、それだからこそですが、現代文明批判といいますか、環境破壊への批判的メッセージが感じられる映画です。
ジョージアのザザ・ハルヴァシ監督の2017年の作品、その年の東京国際で上映されたようです。
この映画の主演、ナーメを演じたマリスカ・ディアサミゼさんとともに監督も来日されていたようです。記者会見の映像がありました。
結構年配の監督だなあと思い、IMDbを見てましたら、1957年生まれですから62歳くらいということですね。IMDbの情報も少なく、すべて網羅されているかどうかわかりませんが、あまり映画を撮っているようではなく、前作になる2015年の Solomon の前の20年間は監督としては空白です。
『泉の少女ナーメ』記者会見|Namme – Press Conference
この記者会見映像を見ますと、俳優の雰囲気もある方ですね。寡黙な印象ではありますが、質問への答えが次第に熱を帯びてくるような真面目さが感じられ好印象です。
映画は、公式サイトにある通りのジョージアの山間部に残る(らしい)人の傷を癒やす聖なる泉の伝承をもとにしているのですが、私は、かなり文明批判的なメッセージを感じました。
まず、冒頭は滝のシーンから始まります。ゴーっという音とともに始まりますので、なんとなく、え?という感じの違和感があり、それにそのカットがかなり長く、滝から流れ落ちた水が流れてくるところをじーっと撮り続けているのです。
で、かなり時間が経って、あれ?水が白く濁ってきたなあと、そのときは泡立ちなのかなと思っていたのですが、映画の中盤に、突然、山の中の工事現場のカットが挿入され、そのときは採石場かなと思っていましたら、どうやら水力発電所の建設工事だったらしく、多分そのための水の汚染だったのだと思います。
そして、物語の軸であるその泉の水も、ラスト近くになりますと枯れてしまうのですが、その前後にナーメが白く濁り始めた川(泉?)の水をじっと見つめるカットが、これもかなり長いシーンとして入っていました。
ただ、映画はそうした文明批判的なことを全面に押し出しているわけではありません。基本は、「水」、そして「火」といった古からの自然崇拝的な概念が、人為的なもの、宗教もそれに入れられていますが、宗教や科学や文明的なものによって消え去っていくことを、神話的に、また寓話的に映像化しています。
「水」については言うまでもありませんが、「火」は、意外にも多くのシーンで登場します。ナーメやその父親が泉の前で手元の火元に息を吹きかけ、2メートルくらい離れた松明に火を移す祭祀を行うシーンが2,3度ありましたし、村人たちが松明を掲げて歌いながら湖の周りを歩いているシーンもありました。
泉には聖なる魚がいます。あれは鯉でしょうか?
この魚は結構頻繁に出てくるのですが、あるいは、ナーメにダブらせるような存在として扱われているのかもしれません。
ラストシーンは、ナーメが、泉も枯れてしまったからでしょう、その魚を湖に帰すシーンで終わります。ナーメが霧に包まれた湖に入っていきます。普通ならどんどん水に浸かっていくはずですが、ナーメは沈むことなく湖面を歩いていきます。そしてその魚を湖に帰すのです。次第に一面霧に覆われてナーメも見えなくなり終わります。
神話的ですね。
そうした古来からの神話的なものはナーメとその父親が象徴しています。ナーメの家は代々泉を守ってきた家系であり、父親はナーメに跡を継がせようとしています。息子が三人いるのですが、それぞれ、ジョージア正教の神父、イスラム教の聖職者、そして無神論の科学者になっています。去っていった者たちです。これも現代の、特にジョージアを象徴的に表している設定のような気がします。
淡々と静かに父親の望みを叶えるために生きているナーメですが、迷いがあるようです。それを象徴的に現しているのがひとりの青年との出会いです。映画ではよくわかりませんでしたが、発電所の工事現場で働いている青年のようです。
青年が車のトラブルで火傷をしたところをナーメが泉の水で癒やします。後日、再会したふたりはラストシーンの湖のほとりへ向かい、これが神話的なる所以なんですが、突如、ナーメが湖の中へ入っていきます。この意味がよくわかりませんが、とにかく青年が岸に上げ、焚き火を起こし温まり、肩を寄せ合います。
その後、青年は出てきません。
という、物語としてはややぼんやりと終わってしまいますが、いずれにしても、神話的、かつ寓話的な映画ですので、辻褄など求めても意味がありません。
美しい映画でした。こうした神話的なものはどの文化でも持っていますので理解云々ではなく、わかりやすく、感じやすい映画ということだと思います。