のさりの島

人にはまやかしに頼りたいときもある

「北白川派」という「京都造形芸術大学と映画学科が一丸となり、その全機能を駆使しながら、プロと学生が協働で一年をかけ一本の映画を完成させ、劇場公開を目指すプロジェクト」で製作された映画です。

ちょうど2年前に「嵐電」という鈴木卓爾監督の映画を見ていますが、それも同じプロジェクトでした。渋くっていい映画でした。

のさりの島

のさりの島 / 監督:山本起也

間合い、音、音楽 

ゆったりした間合いがとても気持ちのいい映画です。それぞれカットもかなり長めで、俳優は台詞だけではなく思いそのものを求められています。

藤原季節さん、杉原亜美さんがそれによく応えています。

物語には大してドラマチックな要素はありませんし、おそらく意図的にそうしたものを排していると思われますので、映画を2倍速で見たりする人にはつらい映画かもしれません(笑)。

それに音を大切にしてつくられているようですので耳にも神経を持っていっていないといけない映画です。映画の中心人物のひとりである堀川清ら(杉原亜美)がFM局のパーソナリティということもあり、天草の音として波音やたいやきの焼き音を流したりしますし、多くの効果音が効果的に使われています。無人の商店街に響く靴音も印象的でした。

音楽では、小倉綾乃さんのハーモニカ、ブルースハープというらしいのですが心に染みます。小倉さんはそのブルースハープで路上ライブをしているという設定で出演もしています。無人の商店街に響く音楽が無茶苦茶ブルースでした。

「のさりの島バンド ミニライブ at 銀天街大阪屋前 in 天草 2021/4/30」という動画がありました。13分50秒から小倉さんの演奏が聞けます。 ソロの部分は映画の中の路上ライブの曲ですね。

ネタバレあらすじとちょいツッコミ

舞台は天草市本渡商店街、今やシャッター街(本当は違うと思う)となっている商店街です。そこで2つの物語が交錯しながら進みます。

ひとつは、オレオレ詐欺をしながら旅をしている男(藤原季節)が受け子として訪ねた先でおばあちゃんに孫の将太と間違われそのまま居着いてしまう話、そしてもうひとつは、地元のFM局のパーソナリティとして働く清ら(杉原亜美)が賑やかだった頃の商店街の映像を探し上映会をやろうとしている話です。

男は将太に成りすます (というか…)

男が商店街にやってきます。入口の看板を見て適当に電話をします。たまたま出た相手の声を聞き「ばあちゃん、オレだけど…」と2、3度声を掛けますと「将太か…」と返してきます。例によって金がいる、友達の誰々が取りに行くと言い、自分でその店に向かいます。

楽器店です。ばあちゃん(原知佐子)がいます。男は友だちの名を名乗りますが、ばあちゃんは「将太、元気だったか」と孫と間違えています。

で、このシーンの前に、おばあちゃんが2階に上がり仏壇に手を合わせ何かを横によけるシーンがあります。ん? なに、今の? とちょっと違和感のあるシーンなんですが、最後に意味がわかります。ここで分かる人もいるかも知れません。

そしてもうひとつ、男はばあちゃんのいないすきに店先に置いてある「お金はここに入れてください(だったかな?)」と書かれた牛乳箱から小銭を盗んでいます。

結局、男はなんとなく将太であることを受け入れてしまい、ばあちゃんに言われるままに風呂に入り、ご飯を食べ、ぐっすり寝込んでしまいます。

この流れ、普通ならありえないだろうとは思いますが、不思議にそんな気持ちは起きてきません(起きる人もいるか(笑))。ばあちゃんの原さんがとても不思議な感じを出しているんです。マジでボケているんだか、男を騙しているんだか、あえて騙す必要などないわけですからなにか訳があってやっているだろうとか、そのあたりのすれすれの、いやいったり来たりという方が近いかも知れませんが、とにかくこういうこともあるかも知れないと自然に感じられるのです。

それにそれを受ける藤原さんがまたいいんです。最近の「明日の食卓」とか「くれなずめ」を見ていますがあまり印象に残っておらず(ペコリ)、でもこの映画はとてもいいです。

物語の続きです。将太が寝入っています。おばあちゃんはその横においてあるスマホと財布を隠してしまいます。

翌朝、目覚めた将太はスマホがないことに気づき、おばあちゃんに尋ねますがおばあちゃんは知らないの一言です。代わりに、将ちゃん、洗濯物干しておいてとか、2階の物置片付けてと用を言いつけられます。

このあたりも不思議と自然に見ていけます。もうひとつの静らのシーンが交互に入ったりすることもありますが、そうしたことや俳優すべてを含んで全体として現実とファンタジーの中間くらいのところにバランスよく収まっているということだと思います。

清らは商店街の過去に思いを馳せる

地元FM局でパーソナリティをしている清らは天草の町を愛しています。友人たちと天草の昔の映像を集めて上映会をやろうとしています。

商店街の人々に昔の8ミリフィルムや写真を持っていないかと尋ね回りますが、なかなか見つかりません。

商店街の会長さんの鞄屋さんを訪ねた時、店に入ったときは照明が落ちています。会長さんがアルバムを探そうと電気をつけます。店の中がぱーと明るくなります。静らが目をみはる感じで見回します。なんだか、印象に残るシーンでした。

能面師(柄本明)を訪ねます。今はかかし(と言っていたか?)を作っていると言います。

ただ、この人形たちの件のおさまりがあまりよくありません。商店街の昔の賑わいの映像が見つからなかったことからの苦肉の策かも知れません。

静らが取材するこのシーンでは、人形たちの中で能面師の説明を聞きながら静らが思わず生きているみたい(だったかな?)ともらし、その後、FM局のスタジオでディレクター(かな?)がその録音を再生しながら静らの返しがよかったよと褒め、ラストに幻想シーンとして静らがその人形たちの中にいるというオチになっています。

将太とばあちゃんのパートに比べますとこちらの上映会のほうはまとまりを欠いています。

町に一軒だけの映画館のシーンが2、3シーンありますのでもう少しうまく絡めて一本筋の通った話しになっていればと思います。映画館でポスターをじっと見つめる後ろ姿の女性のシーンが2シーンもありましたがあれは何だったんでしょう? なにか見逃していますかね。

静らの家は看板屋さんです。祖父も現役です。商店街の店はほとんど静らの祖父か父が面倒を見ていると言っていました。

静ら、翔太と出会う 

ということで、静らが取材のひとつとしてばあちゃんの楽器店を訪れた際に将太と出会います。将太は後ろめたさからやや避け気味ですが、静らから上映会の企画ミーティングに誘われ参加することになります。

きっと将太は静らに好意を持ったのでしょう。その後何シーンか将太と清らのシーンがあり、静らもどことなく将太に好意を持ちつつあるみたいな感じになっていきます。ふたりが商店街で別れるときにあの小倉さんの路上ライブがあります。

この無人の路上ライブ、いいですね。

そして、上映会

将太とばあちゃんの生活は何の違和感もなくしっくりいっています。将太は毎日洗濯物を屋上に干しに行きます。そこには錆びたブランコがあります。また、2階の物置の片付けの際にはアルバムにばあちゃんと男の子の写真を見つけたりします。

どこかでスマホと財布も見つけていたと思います。また、店頭の牛乳箱にお金が入っていることについてばあちゃんに尋ねますと、誰も取ってきゃしないよ、多く入っていることはあるけどなどと答えます。

静らたちの上映会が始まります。

静らがフィルムを探し尋ねる際に必ず言われているのが大火災で全部焼けたから残っていないという言葉で、実際、天草の本渡中央商店街は1964年10月25日の大火災でほとんど焼け落ちてしまったそうです。

上映会は映画館で行われ、その火災の映像が映し出されます。商店街をパレードする子どもたちの映像もありましたが、やはり、静らが映画の冒頭だったかでスタジオに商店街活性化を図るグループを招いた番組の際に言っていた、私は賑やかな商店街を見た記憶があるという言葉に対する返しがここにないのは映画としてかなり厳しいです。

その代わりでしょう、例の人形を使った幻想シーンが入っています(ここじゃなかったかな?)。

静ら、将太を問いただす

静らは祖父から楽器店のばあちゃんの孫はもう亡くなっていることを知らされます。

これもシナリオ段階であまり整理されていないのじゃないかと思います。天草、それもこの商店街を愛する静らがそのことを知らないと考えるのはかなり無理があります。年齢的に静らと将太はかなり近いですし、この後、ばあちゃんが仏壇に戻す将太(多分)の写真は幼い子どもではなく青少年の写真です。

とにかく、静らは将太を海辺の、あそこは何でしょう、波除ブロックが敷き詰められた場所に誘い、将太に「本当はどこの人なの…」と尋ねます。将太は「もう自分が誰だかわかんないんだ…(違っていると思うけどこんな感じ)」と返します。

この後を一切カットしているのはとてもよかったです。

将太は名のない男に戻る

将太は誰にも何も告げずにばあちゃんのもとを去り、ばあちゃんの家で見たばあちゃんと孫が写った写真の場所に向かいます。

世界遺産になっている天草の﨑津集落のカトリック﨑津教会です。

前後が混乱しているかもしれませんが、この後、男は船で海上マリア像を見ます。流れとしては、男が港でぼんやりと海を見ていますと漁師に乗れよと声を掛けられ、とにかく乗ったのでしょう、マリア像が見えるところに来たところ、男が何?みたいに漁師に声を掛けますと漁師は、何だ、マリア像を見たかったんじゃないのかと答えていました(と思います)。

漁師は、「まやかしでも人には必要なときがあるぞ」と言います。

終盤はなんだかちぐはぐに感じます。

北白川派

あらためて振り返りますとあれこれあらも見えてきますが、基本的にはいい映画でした。

こうしたじっくりとした間合いの、安易にドラマに頼らない、俳優の存在感を生かした映画はそれぞれ見るもの中に自分自身の物語を生み出します。

リアリズムであれファンタジーであれ、そうした映画が少なくなっている昨今(でもないか…)、北白川派というのは貴重なプロジェクトだとは思います。

そうした意識を持った映画人がたくさん育っていくことを願っています。

嵐電

嵐電

  • 井浦新

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