この映画をアクション映画と見てはいけない…
ポール・トーマス・アンダーソン監督が「逃げる者と追う者が入り乱れる追走劇(映画.com)」だって?! 大丈夫か?

スポンサーリンク
ネタバレあらすじ
ポール・トーマス・アンダーソン(PTA)監督がアクションもの? と驚きと期待を持った上に、娘が誘拐(じゃなかったです…)されて元革命家の父が…なんて紹介文をちらっと見てしまいましたので「96時間」のような映画なのか?! とさらに期待値を上げてしまったのが大間違いでした(笑)。
そういう映画ではありません。
そもそもアクションものとして考えられているわけではないのかも知れません。アクションもので一番やってはいけないことは細部にこだわりすぎることで、それをやりますとこの映画のように冗長になってしまいます。PTA監督に細部にこだわるなというのは土台無理なわけですから、アクションものとして語ってはいけない映画なんだろうと思います。
劇画的なアメリカの今…
じゃあ、この映画はなんなんだろうということですが、やはり「フレンチ75」という革命家集団と「クリスマス・アドベンチャラーズ・クラブ」という白人至上主義集団を、その名前からしてふざけているとしか思えない戯画風に描き、さらにその象徴的人物であるボブ(レオナルド・ディカプリオ)とロックジョー(ショーン・ペン)を、そのどちらも負け犬的な人物として描いていることに意味があるんだろうと思います。
誰がどう見てもこの映画には現在のアメリカが反映されています。製作年からいって直接的に今のトランプ政権を意識しているわけではないのでしょうが、すでに何年も前からその流れは表面化していますので間違いないでしょう。
ただ、そうしたことが意識されているにしても、おそらくPTA監督には直接的に政治的な意味において評価されることを避けたいという気持ちがあるのでしょう。ですので、冗長と思われようとも執拗に負け犬ボブと変質者ロックジョーの人物描写にこだわっているのだと思います。
それとウィラ(チェイス・インフィニティ)です。
映画は1/4くらいを経て16年後に飛び、革命戦士ペルフィディア(タヤナ・テイラー)の娘ウィラ(チェイス・インフィニティ)が登場します。


PTA監督はこのチェイス・インフィニティさんにかなりのスター性を感じているようです。ただ、その割には登場シーンも少なくあまり存在感は感じられません。大事にされ過ぎたのかも知れませんね。
それは置くとして、映画の流れからしてこのウィラの出自、つまり父親は誰なのかが映画のひとつの軸となっていることはかなり早い段階でわかります。
ここがポイントで、白人至上主義にその拠り所を求めようとしているロックジョー、今のアメリカにあっては決してアッパークラスに入ることは叶わないであろうその人物が、その望みを叶えるためにペルフィディアへの本心からの欲望を封じ込めてまでウィラとの血縁関係を否定しようとすることに比して、もう一方のボブはウィラとの血縁関係そのものにまったく触れようとしないのです。
これもPTA監督の秘めたるメッセージのひとつでしょう。
スポンサーリンク
映画表現の男女を逆転させている…
時代や場所の設定はあまりはっきりしていませんが、メキシコ国境付近のカリフォルニアかと思います(言っていたかも…)。
ボブ(レオナルド・ディカプリオ)とペルフィディア(タヤナ・テイラー)たち革命家集団「フレンチ75」が移民勾留施設を襲います。ボブは爆発物専門家で、ペルフィディアは主要な戦闘員です。戦闘の興奮状態の中で二人は愛し合うようになります。
ところでこの二人の名前ですが、ボブというのは後に地下に潜るための名前で、革命家としては “Ghetto” Pat Calhoun でありニックネームは「ゲットー」です。ペルフィディアは Perfidia Beverly Hills で直訳すれば「ビバリーヒルズの裏切り者」です。こういうところでもこの映画をまともに受けないでねと言っているんでしょう。
「フレンチ75」の爆破などの闘争シーンが映画1/4くらい続きます。その中で重要なのは、冒頭の収容施設のシーンでペルフィディアが所長のロックジョー大佐(ショーン・ペン)に対して性的屈辱感を味わわせることと、それによって逆にロックジョーがペルフィディアに性的欲望(愛かもしれない…)を持つということです。後の戦闘シーンの中でロックジョーが挑発する流れで性行為があったと思われます。物語のキーになることですのであまりはっきりさせていません(私が記憶していないのかも…)。
このペルフィディアとロックジョーのシーン、明らかに過去の男女の映画表現を逆転させることが意識されたシーンです。

ペルフィディアはシャーリーン(後に隠れるためにウィラと名乗る…)を出産します。ボブは3人で家族として暮らすことを望みますが、ペルフィディアは拒否し革命家としての道を進みます。
このペルフィディアとボブの関係も過去の表現を逆転させています。
ペルフィディアは後に逮捕され、仲間の名前と居場所を教えることと引き換えに解放されます。このペルフィディアの裏切り行為についてはあまり触れられず有耶無耶になったままになっています。
スポンサーリンク
アクション映画と見てはいけない…
そして、16年後です。ボブとウィラは聖域都市(sanctuary city)で名前を変えて暮らしています。ボブには革命家の面影はなくヤク中、アル中状態です。始終マリファナを吸っています。ウィラはセンセイ(ベニチオ・デル・トロ)に空手を習っています。
一方、ロックジョーは白人至上主義秘密結社「クリスマス・アドベンチャラーズ・クラブ(CAC)」への入会審査を受けます。ロックジョーは「異人種間交流(白人以外とのセックス)」はないかとの質問にノーと答えています。
ということで、ロックジョーはウィラを探し出すべく部隊を聖域都市に送り、ここから「逃げる者と追う者が入り乱れる追走劇(映画.com)」が始まります。
となるのですが、これがアクション映画としては冗長で面白くないのです(ゴメン…)。
後に自分が読み返して思い出せるように流れを書いておくだけにします。
ウィラは「フレンチ75」のメンバーによって修道院に保護されます。ボブはロックジョーの襲撃を逃れ、「フレンチ75」に緊急電話を入れますが合言葉を忘れてしまい本人確認ができません。この映画はこういうところをしつこいくらいに描いています。アクション映画狙いではなく、そういう負け犬が決して負け犬で終わらない映画だということです。
その後ボブはセンセイの手助けで一旦は危機を脱しますが、逃げる途中で屋根から落ちて逮捕されます。元革命家ですが今はヤク中アル中で体も鈍っているということです。
ロックジョーは「フレンチ75」のアジトが修道院であることを突き止めて襲撃し、ウィラを確保します。礼拝所のようなだだっ広い部屋でウィラを椅子に縛り付け、持ってきたDNA鑑定装置にウィラと自分の唾液を入れて血縁関係を調べます。
ショーン・ペンさんがロックジョーの変質的なところを出そうとあれこれ演じていますが、わたしには逆に演技臭くて苦笑ものです(ゴメン…)。ただ、映画的には悪くはないかも知れません。ボブにしてもロックジョーにしても、また映画全体もリアリティを求めているわけではなさそうです。
ウィラが自分の娘であるとわかったロックジョーは殺害を決意しウィラを殺し屋に預けます。しかし、殺し屋はウィラを助けます(ここはよくわからん…)。ウィラは腕を結束バンドで縛られたまま車で逃げます。一方、逮捕されたボブはセンセイに助け出され、修道院に向かいます。また、CACはロックジョー殺害のために殺し屋スミスを送ります。スミスは車のロックジョーを追いかけ、並走しながらショットガンで射殺します。そして、ウィラを追いかけます。

ウィラの車、ウィラを追う殺し屋スミスの車、ウィラを救おうとするボブの車、3台の車がアップダウンの激しい道路でカーチェースが繰り広げます。このシークエンス、とてもとても長ーいです。
ウィラはそのアップダウンを利用して頂上から少し下ったところに車を駐め脇の丘に登ります。スミスが追突し、車から這いずりだしたところをウィラが射殺します。ボブが駆けつけ、二人はハグします。
ロックジョーは生きていました。傷ついた顔で再びCACの審査を受けます。合格だ、ここが君の部屋だと通され、ガスで処刑されます。
家に戻ったボブとウィラ、ボブは抗議活動に参加すると言うウィラに母親からの手紙を渡します。手紙を読んだウィラは母親に思いを馳せ出掛けていきます。
スポンサーリンク
感想、考察:アクションと人物のバランスが悪い…
すでに書きましたが、この映画はアクション映画でありながらボブとロックジョーという、ある種、現代人を象徴する迷い人のような人物像をこれでもこれでもかと見せつけています。
その点ではやはりポール・トーマス・アンダーソン監督の映画なんだなあと思います。
でも、どう考えても面白くはありません。
このブログには「ファントム・スレッド」と「リコリス・ピザ」しか書いていませんが、「マグノリア」以降、ほとんど見ています。
「ファントム・スレッド」もそうですが、役作りにこだわりを持ちすぎたビッグネームを使った映画はあまり出来がよくない印象です。この「ワン・バトル・アフター・アナザー」のレオナルド・ディカプリオさんもショーン・ペンさんもつくりもの臭すぎます。
アクションものと人物描写もののバランスが悪いのがその原因でしょう。