キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱

夫ピエールとの愛、ジェンダー不平等社会、科学の功罪、3つの視点

なぜノーベル賞ウィーク(発表)にあわせて公開しないのかなあと思いましたら、東京じゃ10月14日が劇場公開日だったようです。ただ、発表はその前の週に終わっていますので、そもそもあまり意識されていないのかもしれません。某地域では今日(書き終えたら昨日になってしまった)が2週間遅れの公開日でした。

ノーベル賞を2度、1903年に物理学賞、1911年に科学賞を受賞した人物、キュリー夫人の伝記(的)映画です。ノーベル賞を2度受賞したのはキュリー夫人が初めてです。

キュリー夫人 天才科学者の愛と情熱 / 監督:マルジャン・サトラピ

マルジャン・サトラピ監督

監督のマルジャン・サトラピさんはイラン出身のフランス在住の方です。最初に世に出たのは漫画家(バンド・デシネ)としてですが、多才な方のようで、その後、自身の漫画をアニメ化したり、実写映画の監督をしたり、さらにフランス語のウィキペディアには作家、イラストレーター、俳優、作詞作曲でも名前が上がっています。

映画としては、自伝的なバンド・デシネをアニメ化した「ペルセポリス」で2007年のカンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞しています。続く「チキンとプラム 〜あるバイオリン弾き、最後の夢〜(2011)」も自身のバンド・デシネを実写化したものです。その後、この「キュリー夫人(2019)」との間に「La bande des Jotas(2012、日本未公開?)」と「ハッピーボイス・キラー(2014)」というコメディがあります。映画監督に軸足が移っているということでしょう。

「チキンとプラム」は見たような気がしていましたが、いま予告編を見ても記憶がよみがえりませんので見ていないようです。実写ではありますが、かなりアニメっぽい作りの映画です。

そうしたところはこの映画でも感じられます。ビジュアル志向が強い映画です。

愛、ジェンダー、科学

世の伝記映画がその人物のありのままを描いているなんてことはほぼあり得なく、描く側が強調したいところや描く側の時代的意味においてとらえ直されるというのは当然のことです。

この映画のキュリー夫人は3つの視点から描かれています。夫となるピエールとの愛、ジェンダー不平等、そして科学のもたらす功罪です。

すでに亡くなっている過去の人物の日常など誰にもわかりませんので、事実として確定していること以外のものはすべて創作(作り話)です。エンドロールに Lauren Redniss さんの「Radioactive: Marie & Pierre Curie: A Tale of Love and Fallout」がベースとなっているとありました。

ピエールとの愛

マリ・スクウォドフスカ(ロザムンド・パイク)とピエール・キュリー(サム・ライリー)との出会いから始まります。

そのシーンの前、映画の冒頭にはマリとソルボンヌ大学(違うような気もするがわからない)のお歴々然とした男たちとの、研究施設に関しての対立シーンが象徴的におかれています。それはまた次の項でということで、この映画の一番の軸はピエールとの愛でしょう。

マリは対人関係においては一貫して気が強く自己主張の激しい人物として描かれています。当時のほぼ完全なる男社会において、女性が社会的成功をおさめるにはそうでなくては無理との判断からの描き方だとは思います。後には、喧嘩の際にピエールから「君の欠点はその傲慢さだ」と言われたりするように、男社会の価値観においては傲慢にもみえる描き方がされており、ピエールとの出会いにおいてさえかなり高飛車な態度です。

ウィキペディアによればピエール35歳とありますので、マリは27歳くらいの頃の出会いです。ピエールは研究施設の提供と共同研究を持ちかけます。マリは自分の能力に自信がありますので、男性からの共同研究の提案は自分の成果を盗まれるという警戒心をもっているようです。

その後、クラブのようなところで再会し、マリの方からピエールに近づき、その後はどういう経緯だったかよくわからないままに二人の研究シーンになっていたように思います(と言いますか、よく記憶していません(笑))。この映画、マリの人物像をていねいに描くことよりも、先に書きました3つのテーマを強く打ち出すことに力が注がれていますので、ストーリー自体はかなりあらすじ的なもので進んでいきます。

ところで、二人の再会シーンの舞台で踊っていたのは、ロイ・フラーという当時パリで人気を博したパフォーマー(今で言えば…)です。スカートダンスとも呼ばれる、大きな布を流れるように揺らして美しく踊るパフォーマーでモダンダンスのパイオニアとも呼ばれている方です。実際にマリやピエールと交流があったようです。「ザ・ダンサー」はそのロイ・フラーを描いた映画です。

この後二人は結婚し、研究も順調に進み、二人の子どもをもうけるわけですが、ピエールが46歳で亡くなるまではほとんど二人の愛情表現はありません。マリのピエールに対する愛情は、ピエールが亡くなってからのマリの喪失感として描かれており、生前ピエールが、マリがいなければ自分の人生はあり得ないと言っていたことに対して、あなた(ピエール)がいなければ自分はなかったと言えばよかったと涙を流しながら悔やむシーンとして表現されています。

とにかく、この映画では、マリが男社会の高圧的なシステムに対して抗う意味での傲慢さが強調されており、それに対するピエールの献身的な態度が目を引きます。

ジェンダー不平等

この映画の一番の軸はピエールとの愛とは書きましたが、それは興行的な意味においてであり、実際には、この映画の一番のテーマは社会における、特に学術社会においてのジェンダー不平等なんだろうと思います。

冒頭のシーン、マリの研究施設に関する要求が大学(かどうかはわからない)の理事会からはねつけられるシーンからの画像ですが、こうしたシーンがその後何か所かに出てきます。服装こそ違え今でもありそうな情景です。

ただ、何度も言いますが、この映画はビジュアル志向ですので、このシーンでもジェンダー的対立構造は画として表現されるだけで、とにかく、マリが肩肘張って(と見えるのは男の視線…)頑張らなければその突破口させ見いだせないといった、当然のことのようにある男社会に抗うマリの姿として描かれていきます。

マリは一切妥協はしません。男女不平等社会にあってはそもそもの男女の出発点が違います。男性であれば妥協しても一定程度の成果は得られます。しかし女性にとっては妥協すればゼロしかない社会です。

映画は後半になりますと、マリと妻子ある男性との不倫というスキャンダルによる社会からの非難やポーランド人であるマリへの人種差別が前面に出てきます。ウィキペディアのマリの項目を読みますと、実際にもそのスキャンダルからのものというわけでもなく社会からの偏見はかなりのものだったようです。

本当に強い女性だったんですね。

科学の功罪

マリ・キュリー夫人がノーベル賞を受賞することとなった功績はラジウムおよびポロニウムという放射性物質の発見です。それ以前にもウランという放射性物質(正確にはそう認識されていなかったのかな…)が発見されていたのですが、マリ(とピエール)は多くの物質が放射現象をもつことを発見し、さらに研究を進める中で新しい元素であるラジウムおよびポロニウムの発見に至ります。そしてその現象を radioactive(radio activity)と名付けたのもマリです。

この映画ではそうしたマリの功績に対して、突然、エノラ・ゲイが広島に原爆を投下するまさにその爆撃機の中の兵士の画を挿入したり、広島の街の描写にいわゆるピカドンが炸裂する映像を挿入しています。画はかなり具象化はされておりショッキングです。また、別のシーンではありますが、チェルノブイリ(チョルノビリ)の原発事故も映像化されて挿入されます。原子炉の中に入った人間が悶ながら死ぬ映像もあります。

放射線の発見(言葉として正確かどうかは置いておいて…)が原子爆弾の製造につながり、原子力発電所の事故につながっているという意味なんでしょうが、さすがにこれは飛躍し過ぎています。当然ながらマリには原子爆弾も原子力発電も認識の範囲外のことです。

マルジャン・サトラピ監督もマリ・キュリーを批判的に描こうとしているわけではないとは思いますが、もしこれをやるのであれば、もっと本質的な意味において近代科学全体をきっちりとらえる視点で映画をつくるべきだと思います。

映画終盤になりますと、第一次世界大戦中にマリがX線撮影装置で負傷兵たちを救うというパートに入っていきますが、これも消化不良といいますか、母親を病院で失ったという幼い頃の記憶とからめて描いていますのであまりにもドラマ仕立てに感じられすんなりとは入ってきません。

ウィキペディアのマリの第一次世界大戦の項目を読みますと、この項目だけでも一本の映画ができそうです。実際に本人もレントゲン車を運転して戦地を回ったらしく、「自らも解剖学を勉強し、自動車の運転免許を取得し、故障時に対応するため自動車整備についても習得」したとあります。

Marie Curie - Mobile X-Ray-Unit
Unknown authorUnknown author, Public domain, via Wikimedia Commons

すごい人物ですね。

映画としてはちょっと間口を広げすぎているところがあり、もう少し焦点を絞ったほうがいいのではと思いますが、マルジャン・サトラピ監督はそうした志向の方ではないのでしょう。