「岬の兄妹」の片山慎三監督です。
「岬の兄妹」ではかなり辛辣なことを書きましたのでよく覚えています。この「さがす」が商業デビュー作とありますので、あれは自主制作だったということです。そして、それが評価されたということでしょう。
しゃかりきにドラマを求めても
「岬の兄妹」では、まだある種のまじめさのようなものが感じられましたが、この映画は自分の目指すところはエンタメなんだと思いきったようです。まじめさというのは語弊があるかもしれません。正確にいいますと社会の矛盾に対して真摯に向き合っていこうというその気概みたいなもののことです。
映画はこうじゃなくちゃいけないということはありませんので、それはそれでいいと思いますが、ということになれば、映画としての完成度が命になりますし、それを問われることになります。
で、それに対する印象をひとことで言いますと、しゃかりきになってドラマを作ろうとしているのではないかと感じます。
「岬の兄妹」では、貧困、知的障害、身体障害を題材(まさしく題材)にしていましたが、この「さがす」が題材(まさしく題材)にしているのは嘱託殺人、尊厳死です。智(佐藤二朗)の妻がALSを発症して死にたい(とはっきりした意思表示はない)と言っているように描かれていましたので京都で起きた「ALS患者嘱託殺人事件」からの発想かもしれません。
ただ、映画は嘱託殺人を尊厳死という死を望む側から描こうとしているわけではなく、殺人者側から、ある種のサイコパス的な意味合いで描いています。いや、描いているわけではありません。表層をなぞっているだけです。ただ単にドラマをつくるために殺人を描いているだけです。
核がなければドラマは生まれない
なにがどうなってどうなったかなんてことを追い求めてもドラマは生まれません。あれこれ策を弄してもドラマは生まれません。時間軸を逆転させても(じゃなく、遡らせても)ドラマは深くなりません。
なにを描こうとしているのかの「核」がないからです。
映画は三段階に時間を遡らせ、そして最後に最初に戻すということをやっています。それを時系列順に整理しますと、まず、智(佐藤二朗)の妻がALSを発症します。智は、妻がどう思っているのかを考えもせず、きっと死にたいだろうと、名無し(清水尋也)に嘱託殺人を依頼します。そしてその実行を機に名無しは、ネットには死にたいやつが溢れているとして、智に嘱託殺人の共謀を持ちかけます。
智は名無しに言われるがままにネットでターゲットを探し出します。そのひとりにムクドリ(森田望智)がいます。名無しはムクドリを殺そうとしますが、失敗します。
で、これがよくわからないのですが、この時点ですでに名無しの殺人は連続殺人事件として捜査本部も置かれ、名無しは指名手配までされています。しかし、この映画には警察の捜査が一切描かれません。その影もみえません。名無しに殺人犯として追われているという意識もみえません。
そうしたこともあるのかどうかよくわかりませんが、智はある計画を立てます。名無しの裏をかいて名無しを殺し、依頼者からの金を自分のものにしようとします。そのターゲットがムクドリです。ムクドリの死への願望は強いようで、その後自殺を図り車椅子生活になっています。それでも死にたいと300万円で殺して欲しいと依頼してきます。
そしてそのシーンです。名無しは300万円を受け取り、ムクドリを絞殺します。外で見張っていた智は名無しに誰かやってきたと嘘をいいナイフを名無しに渡します。外へ出ようとした名無しを智は金槌で撲殺します。そして、300万円を奪い地中に埋めます。で、なぜかその後ムクドリが息を吹き返し、智に殺してくれと迫ってきます。智はベルトで絞め殺します。そして、智はその場を偽装するために、手袋をし名無しに握らせたナイフで自分の腹を刺します。
智の思惑通りに事件は終結、しかし、智が埋めた300万円は一番上の1枚だけが本物で残りは白紙でした。
楓はどこへいった?
これがこの映画のストーリーですが、あれ? 「さがす」って何を? それに主演の楓(伊東蒼)が出てこないじゃん、ってことになります。
これがこの映画の一番の問題で、「核」がないというのはそのことです。
映画は、上のストーリーが 3、2、1 と過去にさかのぼっていくつくりになっており、その 3 のパートが楓が智を「さがす」パートになっているのです。つまり、
大阪の下町で平穏に暮らす原田智と中学生の娘・楓。「お父ちゃんな、指名手配中の連続殺人犯見たんや。捕まえたら300万もらえるで」。いつもの冗談だと思い、相手にしない楓。しかし、その翌朝、智は煙のように姿を消す。
(公式サイト)
というパートで、ここでは、実際には智は自らの計画のために身を隠したわけですが、それを知らない楓は父親が行方不明になったと必死で探し回るわけです。それもかなり長い時間を使って描いています。さらにラストシーンは、事件終結後、楓が智に何もかも知ってるよとピンポンのラリーをしながら告げるところで終えているのです。
なぜ、楓を軸に(核に)して映画をつくらない? と思います。
1 のパートであり、そもそもの発端となっているALSを発症した妻と智のパートでも楓は一切(妻の死後のワンカットあり)登場しません。この不自然さがこの映画を象徴しているということでもありますが、面白く見せようとの意識が前面に出て何を描きたいのかがつくり手にもみえていないのではないかと感じます。
2 のパートは名無しのパートです。既視感の強いシーンの連続ですが、名無しの殺人という行為への無関心さや意識の希薄さと、ムクドリの死への執拗さが早くしてよ!みたいに日常的に描かれていたのは新鮮でした(笑)。
とにかく、結局のところ、つくり手に視点がないということでしょう。楓と智の父娘関係なのか、名無しの犯罪なのか、執拗に死を求めるムクドリなのか、それらをあれこれ並べてみても、つくり手が何を見ようとしているのかがなければドラマは生まれないということです。
人物造形が出来ていない
そうしたことはそれぞれ登場人物の存在感の薄さに現れています。
智(佐藤二朗)、名無し(清水尋也)、ムクドリ(森田望智)は何をしたいのか、何をしようとしているのかよくわかりません。各シーンでキャラが変わるようなところがあり、演出意図がはっきりしていないということでしょう。
楓(伊東蒼)は存在感があるにもかかわらず、ストーリーとして狂言回し的に使われてしまっていますのでもったいないと思います。
と、またも辛辣なレビューになってしまいましたが、とにかく内容がどうであれ、映画に緊張感がありません。みていても集中させられるだけの力が感じられません。エンタメを目指すのであれば基本的な作劇法を学ぶべきです。