映画.comのレビューの点数がかなり低いことで目につき、ひとつふたつレビューを読んで逆に興味がわいた映画です。それに、監督の伊藤ちひろさんの名前になんとなく記憶があり、このブログ内を検索してみましたら、「窮鼠はチーズの夢を見る」のシナリオがいいと褒める際に、何の根拠があったのかは忘れましたが、その映画の脚本の堀泉杏さんのことを伊藤ちひろさんの別名? なんて書いています。
マジックリアリズム
まず率直な感想を言えば、面白かったです。前半は未山(坂口健太郎)にこだわりすぎていますのでややかったるいですが、後半になりますと詩織(市川実日子)が引っ張る場面が多くなりわかりやすくなります。
物語を語る映画ではありませんのでレビューの評価が低くなるのも当然かと思います。そのあたりは監督としての力不足の結果でしょう(ペコリ)。もっと集中して見られるものにできそうに思います。
公式サイトに「マジックリアリズム」との言葉が使われています。日本の映画ですので、ウェブサイトにも原案、脚本、監督の伊藤ちひろさんの目はいき届いているでしょう。
であれば、この映画は時間軸や空間的意味での物語を語ろうとしていないということになります。実際、未山にしても実在かどうかはっきりしませんし、莉子(齋藤飛鳥)にしても途中までは非現実にみえます。明確に実在と感じられるのは詩織とその子どもの美々(磯村アメリ)だけです。
この映画は、その4人の side-by-side 関係をマジックリアリズムで描こうとしているんだと思います。
未山
未山を「目の前に存在しない“誰かの想い”が見える」人物にしているのは後付けじゃないかと思います。
この映画の核心は、美しい自然の中の4人の、さらに言えば、詩織、莉子、美々、女性3人の心地よい関係、佇まいをみせることにあり、それをマジックリアリズムで描くために未山の人物像に非実在感を持ち込んだというのが正解でしょう。
前半は、未山が非実在をみることができる人物であることを見せることに費やされています。女性を診断(なんて言えばいいんだ…)して戦争でレイテ島から戻っていない父親が会いたがっているとか、技能実習生のミャンマー人の父親が死にそうだ(違ったか…)とかのシーンがあります。
非実在の人物をそのまま登場させるというのは説明的すぎますし、ただぼんやり立たせているというのも映画的ではありません。そりゃ俳優もどういう顔をしていいのか困るでしょう(笑)。
後半には看護師である詩織に患者の娘が寝たきりの父親を診て(この診るでいいのか…)ほしいというシーンがあり、ここではその会話で笑いを取っていました(私だけか…)が、その後未山はその患者をみて真顔でまだ生きているから何も感じないと言います。笑っていいと思います(笑)。
とにかくこうしたシーンがよくありません。それに、最初から後輩の草鹿(浅香航大)を登場させながら、その草鹿絡みの話になるまでが長いのも気になります。
こうしたことが結果として見る者の集中力を妨げています。
莉子
草鹿は未山に過去の過ちを思い出させる役割の人物です。正確には、と言いますかあまりきっちりとは組み立てられていないように思いますが、未山と莉子は何らかの関係(愛し合っていたか…)があったのですが、未山は莉子を置き去りにしたまま東京からこの地(架空の地と考えるべき…)に逃げてきています。
未山はその莉子を東京からこの地に連れ帰ります。最初は自らが住まいとしている(らしい…)あばら家風のよくわからないところに匿っていますが、詩織と美々が訪ねてきて、うちに来たらと言われ、二人して詩織の家に移ります。
詩織はあばら家で莉子を見て、あなたは誰?と尋ねます。莉子は「居候です」と答えます。ぷっと吹き出してしまいましたが、この映画にはこうしたシーンが結構あります。虫が入るからなんて台詞の繰り返しもそうです。映画のわかりにくさにとらわれずにこうした志向のある伊藤ちひろ監督と考えたほうがいいと思います。
莉子は妊娠しています。父親が誰かということは大した問題ではないのでしょう。そもそもこの時点においては莉子は実在しているかどうかもはっきりしていません。つまり、その意味では父親は未山かもしれませんし、草鹿かも知れません。さらに言えば、莉子の妊娠自体が過去の話かも知れません。
映画からはそれますが、こうした描き方は子どもに対する女性の優位性を感じさせます。女性は自らが生んだ子どもに対するつながりを確実に実感できますが、男性にはそれがありません。これはラストで未山を消していることとも関連しています。
とにかく、莉子は詩織や美々と暮らすうちに非実在から実在する人物に変貌していきます。そしてラストでは子どもを生み、詩織と美々とともに side-by-side です。
詩織
詩織は看護師をして自立した生活をしています。美々の父親が誰かは詩織がなにか言っていましたが聞き漏らしました。大したことではないでしょう。
そこに東京から逃げてきた未山が、それこそ居候したという設定です。未山はなにか収入を得ることをしているようではなく詩織母娘の主夫をしています。これも未山の非実在感のためだと思われます。
詩織は未山が莉子を匿っていることをみて、家に来ればと、とても自然に言葉にします。
この映画の重要ポイントだと思います。この映画は未山でもなく、莉子でもなく、詩織と美々の映画だと私は思います。
美しい自然の中の自然体の詩織の姿こそ、この映画が見せたかったことではないかと思います。
男は時々いてくれればいい…
男は時々いてくれればいい、それも未山のような存在で…、ということでしょうか。
マジックリアリズムという意味では、そもそもそれが目的ではなくひとつの手段としているだけだとは思いますが、その点で言えば、坂口健太郎さんはあまりにも非実在にとらわれすぎています。また、齋藤飛鳥さんは非実在感が薄くミスキャストでです(ペコリ)。
迷子になる牛が何度かでてきますが、うがった見方をすれば、あれは男存在のメタファーでしょう(笑)。
なお、フェードアウトが多すぎます。
まだ書き忘れていることがあるような気がします。それは映画が面白かったことの証です。
もうひとつ、公式サイトのプロフィールをみましたら、やはり堀泉杏さんは伊藤ちひろさんですね。