コメディ、アイロニカル、シュール、パレスチナ、あるいは世界の現実?
エリア・スレイマン監督、初めて見ました。
パレスチナの映画と言いますと、ハニ・アブ・アサド監督の「パラダイス・ナウ」や「オマールの壁」といった対イスラエル視点の映画を思い浮かべますが、この「天国にちがいない」はちょっと違っています。
クスッと笑える映画
エリア・スレイマン監督自身が、自分の映画の企画を売り込むという設定でパレスチナからパリ、ニューヨークへと移動し、再びパレスチナに帰ってくる、そのそれぞれの場所で監督が目にした人物や出来事がつながりがあるようなないような感じで描かれていきます。
それぞれのシーンはクスッと笑えるコメディっぽいシーンであったり、皮肉の効いたアイロニカルなシーンであったり、パリやニューヨークではかなりシュールなシーンもあります。
そうしたシーンの合間にスレイマン監督がその場面を見ている姿を正面からとらえたカットが入ります。すべて自然体の無表情です。監督は映画のシーンとは別次元に存在しているようにも見えます。
スレイマン監督が自分は「天国にいるにちがいない」と思っている映画なのかなあ、なんて思いながら見ていました。
ネタバレあらすじとちょいツッコミ
物語は公式サイトに最後まで詳しく書かれています。一部引用しながら書いていきます。
ファーストシーン、パレスチナ、ナザレです。
映画監督のエリア・スレイマンは、自宅で(略)ふと庭を見下ろすと、レモンの木から果実をもぎ取っている男が居た。その男はこう言う。
「隣人よ、泥棒とは思うな。ドアはノックした。誰も出てこなかったのだ」
イスラエルのことなんでしょうか?
このナザレの各シーンでは街なかのシーンでもエキストラをまったく使っていません。ですのでリアリティを求めているわけではなくシンボリックにその情景を描こうとしているわけです。
ですので、棍棒を持った10人くらいの男たちがあたかも監督に向かってくるかのようにすれ違うシーンでも、レストランのシーンでも、その他街なかのシーンでも、良くも悪くも監督は何を言いたいんだろうと考えてしまいます。
警官が運転する車の後部座席に目隠しをされた女性がいるシーンもそうですが、何を意味しているのか、わかんないことのほうが多いんですけどね。
パリへ移動します。
華やかな都、パリ。カフェのオープンテラス席に座っているエリア・スレイマンは、道行くお洒落なパリジャンたちの姿に圧倒される。
カフェに座るスレイマン監督の前を女性たち(男性もひとりくらいいた)がまるでランウェイを歩くように行き交います。モデルだと思います。
このシーン、やたら女性の腰あたりをアップで入れています。なんなんでしょう? よくわかりません。
このパリでもいわゆるエキストラは使っておらず、あのロケーションでどうやって撮っているんだろう? と思います。ヴァンドーム広場やルーブル美術館でも監督ひとりだけのカットがあります。合成なんでしょうか?
そうした殺風景な背景の中で教会のフードサービスに並ぶ人たちや路上に寝っ転がっているホームレスのサポートをする救急隊員などが描かれます。
エリア・スレイマンはナポレオン像のあるヴァンドーム広場まで歩いてくるが、やはり誰もいない。ふと後ろを見ると、いきなり戦車が何台も走ってくる――。
パリも戦場ということなんでしょうか。
物語としてはスレイマン監督が映画の企画を売り込みに行くということですので、このパリでも映画会社を訪ねるシーンがります。ただ担当者からは「パレスチナ色が弱い」と断られています。
やはり、パレスチナであれば対イスラエルのレジスタンスじゃないと売れないという意味の言葉なんでしょう。ヨーロッパやアメリカ、そして日本もですがそうした国への皮肉なんでしょう。
ニューヨークに移動します。
これもどういう意味なんでしょう?タクシーに乗りますと運転手がどこから来たと尋ねます。スレイマン監督が「パレスチナ人だ」と答えますと、運転手はパレスチナ人に初めて会った、イエスの故郷だと興奮し妻に電話したりします。アラファト議長のことをカラファトと言っていました。
アメリカにとってはパレスチナは遠い国、イスラエルは近い国ということでしょう。
スレイマン監督の台詞はここだけだったように思います。
この街の住民は、みんな疑心暗鬼のようだ。誰もが銃を持っている。バズーガ砲を持っている者まで。
公園に佇むエリア・スレイマン。池のほとりには天使のような少女がいる。そこにNYPD(ニューヨーク市警察)のパトカーがやってきて、警官たちが彼女を追いかける。まもなく取り押さえると、大きな白い羽根だけを残して少女の姿は消えた。
アメリカはパレスチナよりも危険?
当然ニューヨークでも映画会社を訪ねます。
「メタ・フィルム」という映画会社のロビー。エリア・スレイマンは友人でもある俳優のガエル・ガルシア・ベルナルと一緒にプロデューサーを待っている。
ようやくプロデューサーの女性がやってくると、ベルナルは彼女にESを紹介する。「友人のスレイマン監督です。パレスチナ出身でコメディを撮ってる。次の作品のテーマは“中東の平和”」。
それを聞いたプロデューサーは「もう笑えちゃう」と返し、「健闘を祈ります。またいつか」と言い残して去っていった。
ハリウッド(アメリカ)はパレスチナなんかに興味はないだろうということかも知れません。
ガエル・ガルシア・ベルナルさんが本人役で出ています。実際にスレイマン監督の友人ということのようです。
失意のエリア・スレイマン。タロット占いを受けている。
占い師は「なるほど。これは面白そうだ」と語り出す。「“この先、パレスチナはあるのか?”――。パレスチナはある。必ずや、ある。ただし、我々が生きているうちではない」
パレスチナには希望が見い出せないということなんでしょうか。
再びパレスチナ、ナザレに戻ります。
自宅に戻ってきたエリア・スレイマン。庭にはレモンの木に水をやっている男の姿。山に行けばベドウィンの女性が水を運んでいる。クラブでは賑やかな曲に合わせて、みんな踊っている。
いつもの日常が続いていく。
という映画です。
男が植えたレモンの木に実がなっていましたね。これもどういう意味なんでしょう?
ちょっと眠くなるかも知れない…
やはり映画としては単調ですので眠くなるかも知れません。
それに何を意図しているんだろうと考えさせられますのでやや疲れます。
現実を寓話的に描いている映画ということになるのでしょうか。
見ていない「D.I.」を見てみましょう。