ゴドー待ちのバリエーションとしてみれば面白い
ジム・ジャームッシュ監督のゾンビ映画です。
ホラー度ゼロ、パニックシーンなしの一風変わった映画で、コメディかと言われれば確かに笑えるところはありますのでそれをオフビートととらえればジャームッシュ監督らしいとも言えるのですが、なんとも奇妙な映画ではあります。
ただ、ゾンビ映画の基本はきっちりと守られています。
死者が生き返ること、ゾンビには生前の記憶が残っていること、生きた人間を襲い肉を食うこと、襲われて食べられた人間はゾンビになることなど、ゾンビ側は他のゾンビ映画と変わるところはありません。
あえて言えば、ゾンビたちは生前執着していたものから逃れられず、蘇ってもなお執着し続けることが強調されています。コーヒー・ゾンビ、シャルドネ・ゾンビ、おもちゃやお菓子に執着する子どもゾンビ、スマホ・ゾンビ、テニス・ゾンビ、ファション・ゾンビなどなど、監督自身もインタビューで語っていましたが、そこに物質文明批判みたいなものはあるのでしょう。
同じような意味合いでしょうが、そもそもゾンビ発生の原因は政府が進めている北極での工事で地軸が歪んだためではないかとのテレビニュースを頻繁に流していました。
ゾンビ映画である以上シリアスではないにしても、そうした社会批判を織り込んだ寓話的な映画であるとは言えると思います。
ただ、この映画、そうしたゾンビたちよりも生きた人間たちの寓話性のほうが理解が難しいです。
まず、ゾンビを恐れない警官ふたり、クリフ(ビル・マーレイ)とロニー(アダム・ドライバー)は、そもそもゾンビ対人間というパワーゲーム的な立ち位置に立っていません。
ダイナーで内蔵を食いちぎられた死体を見ても、リアルな嫌悪感や不快感をあらわすことなく、ロニーに至っては即座にゾンビが現れたようだとのたまい、幾度も「これでうまく行くはずがない」と結末までも予想させ、挙げ句の果には「自分は脚本を読んだ」とまで言っています。
こうした楽しみながら作られたような映画のセリフやシーンに過度な意味付けをするのは野暮だとは思いますが、少なくともゾンビ映画の王道を外した変わった人間たちはジャームッシュ監督(脚本も)の立ち位置を反映していることは間違いないでしょう。
世捨て人のボブ(トム・ウェイツ)もそうです。
映画は、クリフとロニーが住人から鶏が盗まれ、それがボブの仕業との訴えをうけて森にボブを探しに行くところから始まります。映画的には長くてかったるいシーンですが、その後起きるゾンビ対人間の戦いを目撃する観察者としてのボブの立ち位置をはっきりさせたかったのでしょう。
ボブは、人間たち、もちろんクリフもロニーも全ての人間たちが食われてしまうラストまでしっかりと目撃します。
そしてもうひとり、ゼルダ(ティルダ・スウィントン)という葬儀屋がいます。
柔道着を着て日本刀を操り、ゾンビの首を一太刀で切り落とす腕前です。歩くときは直角にしか曲がらず、コンピューターのスキルは人間離れしています。
ラスト近く、コンピューターを人間業とは思えないスピードで打ち、ディスプレーいっぱいに判読不明の文字を打ち出したかと思いましたら、おもむろに表に出てゾンビたちの中に入っていきます。
ゾンビと戦うのかと思いきや、なんとそこに宇宙船が到着し、宇宙船から放たれた光に吸い込まれて、あっという間に飛び去ってしまいました。
ゼルダは宇宙人でした(笑)。
ラスト、クリフとロニーはその結末を知りながらゾンビたちの群れの中に入っていきます。何人かの首は切り落としますが、最後は食われてしまいます。
どう考えても絶望的な結末です。
クリフとロニーは自殺みたいなものですし、ふたりが最後の生きた人間だとすればゾンビたちにとっても未来はありませんし、その姿を傍観したボブが仮に生き延びたとしても人類は滅亡です。そして救いの神であったかもしれないゼルダはもう去ってしまっています。
ふと、この映画は「ゴドー待ち」のバリエーションではないかという気がしてきます。
仮にそうだとしてもジャームッシュ監督がそれを意図したというわけではないとは思いますが、クリフとロニーの会話は不条理劇の趣ですし、何とは語られませんが何かを待っているようでもあります。
「ゴドーを待ちながら」では何も起きないことがひとつのテーマですが、この映画では死人が生き返り生きた人間を食い殺すというとんでもないことが起きます。一見全く逆にも見えますが、クリフとロニーはそのことに全く心を動かしません。これはドラマ性が拒否されているということです。何も起きていないことと同質です。
ロニーは自分の与えられた役割を知っていると言い、よくない結末まで知っています。クリフは結末を知らないまでも自分の役割は知らされています。
ふたりはこの世の不条理さを感じつつ、さらに自らの行為が無意味であることを知りながら、自殺行為にも見えるゾンビとの戦いに身を投じます。
その時すでに神(ゼルダ)はなく、残された我々(ボブ)にも未来はありません。
といううがった見方はおいておいて、本当のところ、ジャームッシュ監督はビル・マーレーさんとアダム・ドライバーさんで映画が撮りたかったことと多彩な俳優を使ってオマージュやらパロディやらのお遊び満載のゾンビ映画を撮りたかっただけなんだろうと思います。