セルビアの鉄道運転士は死者のために花を育てる
この映画はどんな映画? と聞かれたら、全体的なトーンとしては「アンダーグラウンド」っぽく、物語のベースは「人情もの」で、主演のキャラクターの矜持の有り様が「健さん」的と、そんなふうに答えるのがいいかと思います。
いや、イリヤの鉄道運転士としての矜持の持ち方は健さん的ではありますが、人物像としては「寅さん」的といったほうが近いかもしれません。
「アンダーグラウンド」っぽいというのは、製作が旧ユーゴスラビア構成国のセルビア、クロアチアですし、ミロシュ・ラドビッチ監督もセルビア生まれの63,4歳の方で、現在はセルビアでテレビや舞台の脚本を書いたりディレクターをされているようです。
「アンダーグラウンド」のエミール・クストリッツァ監督と同年代です。ただし、クストリッツァ監督はボスニア・ヘルツェゴヴィナ生まれです。
もともと日本で見られる旧ユーゴスラビア構成国製作の映画はそう多くはありませんが、ここしばらくは映画の題材としてもユーゴスラビア紛争が描かれるものがほとんどでしたので、セルビア、クロアチア共同製作でこういう映画ができるようになったんだなあという感じがします。
「人情もの」という点では、鉄道運転士たち市井の人々の日常生活を描いていることや軸となる物語も身寄りのないシーマをイリヤ(たち)が育てていく成長物語いうことであり、おそらく価値観において、その地の観客の一定層が違和感なく受け入れられるものなんだろうと思います。
その点では、日本の人情もの、たとえば寅さん映画を文化の違う人が見たらこういう印象を受けるのではないかと感じる映画です。
走る列車から捉えた流れる線路の映像から始まります。列車を運転するのは定年間近(らしい)のイリヤ(ラザル・リストフスキー)、行く先の踏切で立ち往生する車がみえます。急ブレーキをかけるイリヤ、車に乗った人々の驚愕の顔、そして衝突、ただし、その表現はリアリスティックではありません。
イリヤのナレーションが入ります。
「親父と俺は53人の人間を殺した。男が40人、女が13人。じいさんの分も加えれば66人殺したことになる。裁かれたことはない。罪はないからな。文句を言われても、流すしかない」(正確に記憶できていないので「戦争のトラウマがない新しいセルビア映画を作る『鉄道運転士の花束』 | 大場正明」からの引用)
このファーストシーンだけでも、この映画がやろうとしていることがわかります。表現はそっけなく冷淡に見えるかもしれないけれども、その奥には深い優しさがあるんだよということです。
続いてのシーンも、割と多くの人があるあると思えるのではないかということを強調してやっています。
冒頭の事故で6人の犠牲者を出したイリヤのPTSDを心配して臨床心理士がカウンセリングをしています。イリヤが事故の生々しい描写を語りますと、臨床心理士のほうが気分を悪くしてしまいます。
このシーンをマジに見れば、イリヤが無感覚、無感情に話すそのことこそが実はPTSDの症状だと思います(笑)が、ここは突っ込みどころではなく、ファーストシーンと同じくこういう映画なんだよと宣言しているみたいなものでしょう。こうしたところをブラック・コメディと評するコメントもありますが、別に皮肉っているわけではありませんので、ブラックと言うよりも鉄道運転士としての矜持を強調して寓話的に描いているだけだと思います。
実際、列車事故というものが避けられないものであり、運転士に過失がなくとも衝突による心身への衝撃は計り知れないものでしょうから、あれくらい強靭な神経を持っていなければ務まらないのかもしれません。
同時進行で養護施設で暮らす10歳くらいの少年シーマのことが語られます。いや、大して語られていませんね(笑)。養子縁組の話があり里親と対面し、その際に自分は捨て子だと知らされることがエピソードとして語られるだけです。
シーマは列車に轢かれて自殺しようと線路を歩いています。イリヤが運転する列車が近づきます。間一髪のところで停車し、イリヤはシーマを連れて帰り育てることにします。
あのイリヤや運転士仲間の住まい、車両区に停められた列車なんですよね。実際にはないんでしょうが面白いですね。
イリヤはその住まいで花を育てています。自分が轢き殺した人への弔意のためのものです。冒頭の列車事故の犠牲者の墓に花束を供えにいくシーンがあり、さすがにあのイリヤの素っ気なさはやりすぎじゃないのは思いましたが、とにかく、花束はイリヤたち運転士の優しさの表現ということです。
シーマが青年になります。10年後くらいでしょう。10歳のシーンでベッドに横になり、次に起きると青年に育っているというのはうまかったですね。お!と思いました。こうした映画には細かいことにはこだわらずこのテンポが重要ですね。
シーマは極めて寓話的に真面目で良い青年に育っています。イリヤの言うことはちゃんと聞き、運転士仲間からも可愛がられています。
シーマは鉄道運転手になりたいと考えていますが、イリヤは自分が生きている間は運転士にはさせないと許しません。人を轢き殺すという思いをさせたくないからです。でも、(映画ですから)鉄道会社への就職は許し、自分の元からは離すたために遠くの町の運転士じゃない部門(忘れました)に就かせます。
この後は、シーマの鉄道運転士としての成長とイリヤが抱えている悔恨からの開放が描かれていきます。
シーマの方は、その仕事先で悪い(?)運転士に騙され列車を運転するはめになり停められなくなってパニクって列車を放棄してしまします。イリヤは自分がちゃんと教えるべきだと思い切ったのでしょう、シーマを手元に呼び寄せ運転士として育てます。
順調に育っていくシーマです。ある時、意味ありげな指示を受けて運転席で待機していますと、ひとりの女性がやってきます。イリヤや運転士仲間がシーマに女性との初体験をさせようとしたということです。
まあ、こういう寓話的な映画ですから疑問を感じつつも許容範囲なのかなあとは思いますが、この後に書く予定のイリヤの話もそうですが、無自覚にやっているとしたらちょっといただけません。
とにかく、シーマが運転士として経験すべき残るひとつは、列車事故で人を轢き殺す(オイ、オイ)ことです。これにイリヤの過去の話が絡んできます。
イリヤがストイックな生き方をしているのは、もちろん多くの人を轢き殺したという自責の念(というほどシリアスには描かれていない)もありますが、若き頃の恋人を列車事故で亡くし、その現場を目撃しているからです。
おそらく、そのことから結婚せずひとりで生きてきたのでしょう。ただ、同僚にイリヤに思いを寄せる女性がおり、イリヤにその思いは伝わっていますが、健さん的(笑)生き様のイリヤは、ときに精神的癒やしを求めてその女性に心身ともに寄りかかったりするのですが、それ以上進もうとしないようです。突っ込みどころではありませんが勝手ですわね。
ある時、割と突然に、イリヤは過去の恋人の幻影を見るようになり、画としては、若いままの恋人とイリヤがしばらく一緒に生活する描写が続きます。運転士仲間がいぶかるシーンもありますが大した描き方はされていません。
シーマが、いまだ人を轢き殺せなく、逆に妄想が講じ、どんどん神経質になりパニクっていきます。
イリヤは何とかしようと自殺志願の男に話を持ちかけますが、自分が轢かれればと言われ、割とあっさりと決断し、線路に横たわります。恋人との妄想はどうなったんでしたっけ? 記憶がありません。
シーマの運転する列車が横たわるイリヤに近づきます。その時、踏切に例のシーマを騙した悪い運転士が車で入り立ち往生してしまいます。シーマはブレーキを掛けるも車に衝突し、晴れて(?)人を轢き殺すことになります。
イリヤはと言えば、過去の妄想も断ち切り、同僚の女性の思いを受け入れ二人で暮らします。(勝手ですわね(笑))
走ってくる列車には晴れやかな顔のシーマと初体験をした女性が乗っています。
と、いう映画です。
ところで、なぜ冒頭の事故で轢き殺した6人をロマと表現する必要があったのでしょう? 映画的には誰であれ意味はないと思われますので、あえてそう表現しているのは何か意味があるのでしょう。
気になるところが多いながらも、楽しくみられる映画ではありました。