に「愛とセックス等身大花屋の女」は描けたか?
「東南角部屋二階の女」には、いい印象も持っていましたので非常に残念なのですが、これは正直つまらなかったです。
そういえば、「東南角部屋二階の女」についても何か書いたのですが、どこに書いたのでしょう? このブログ内を検索しても見つかりません。書き散らかしたブログをHatenaにまとめようかと少し移したのですが、あれは一体どこに書いたのか? 探さねば…。
で、問題は何なんだろうと考えていて、このインタビューで分かりました。
結局、これを読むと、「東南角部屋〜」は池田千尋の作品ではないと読めてしまいますね。衣装合わせのくだりにしても、この話って監督が喋る話じゃないでしょ、仮にそういうことがあったとしても、こんな臆面もなくぺらぺら喋ってどうするんでしょう?
それに、何も、監督はドシッと机のこちら側に座っているものだとは思いませんし、自分のやり方でやればいいんじゃないんでしょうか。机の前後ろで価値判断したり、ものをつくる場に「レベル」を持ち込んだりとどうなんでしょう?
もちろん、どの世界でもそうですが、職人的な世界に新参者が入っていくことの難しさや大変さは相当なものでしょう。それは分かりますが、そんなことに怯むんだったら、そもそもオファーされた仕事などせず、自分の撮りたい映画を自分と「レベル」のあった仲間で撮ればいいことだと思います。
と、無茶苦茶きついこと書いてますね。
で、この「夕闇ダリア」です。
まず、ファーストカットの結構長回し、あれの意図するところがよく分かりません。やや起伏のある住宅街の直線道を、女(吉井怜)が歩いてきます。ほとんど人影はありません。車も通るだろう道幅の道路の真ん中を堂々と歩いてきます。
なぜ真ん中なんでしょう? 絵面なのか、女の性格表現なのか、いずれにしても意図的なのは間違いありません。なぜ意図的じゃいけないの?映画なんだからあたりまえじゃん、って、その通りなんですが、何を意図しているのか分からないのに意図していることが分かるということを言いたいだけです。
次のカット、男(柄本佑)が車の運転席に座っており、女が何か一言かけ(たかな?)、助手席に乗ります。男は「おはようございます」と丁寧語で答えます。車は発進、やがて高速(首都高?)へ入り、男がゆりの花を誰かに(後に恋人だと分かるが)贈りたいと言い、女は「ゆりは匂いがきつい」とつぶやき、男は贈る相手がゆりが好きだと答えます。そして、後部座席から二人をとらえたカットの中で、女が男の顔にそっと触れようと手を出し、途中で思い直して引っ込めます。
で、しばらく見ていきますと、結局この映画は、この三人、男と女とゆりの女の三角関係の話なのだと分かってきます。それも、女は相当に煮詰まってきている状態のようです。つまり、上に書いた車のシーンは、そのまんまのことを当事者がやっているわけです。
男は、毎日女を迎えに来る(のかな?)約束になっているようです。であるのなら、なぜ、こんなに離れたところで待っているのでしょう? ファーストカットの長く歩く画が欲しかったからでしょうか?
男が、「おはようございます」と丁寧語を使ったのは最初だけで、その後は「おはよう」です。なぜ? 最初に男との距離感を表現したかったんでしょうか?
と言った具合に、ひとつひとつの画が何かの意図を表現するためだけに作られているような感じがするのです。画そのもの、そこにいる人そのものからにじみ出てくるような映画の力といったものを求めようとはせずに。
「女性監督が描く等身大の愛とセックス」
ポルノチックという企画の公式サイトが見つかりませんので正確ではありませんが、多分こういうことなんでしょう。ただ、私には、この映画を見て、「ああ、今の20代の女性には恋愛やセックスがこう見えているのだ」と思えるような新鮮な感覚は全くありませんでした。年齢と生活環境において、その等身大とは遠く離れたところにいる私でさえ理解できる、つまり、ある意味、ステレオタイプな恋愛観とセックス観に乗っかったありふれた映画にしか見えませんでした。
さらに気になるのは、女が車を運転できず男に頼っているのが交通事故の後遺症からであり、ラスト、自ら運転することで男との関係を断ち切るようにえがいたり、ゆりの女の幻影を登場させ、それに自らも反映させることで女の内面をえがこうとしたりと、相当安易な手法をとっていることです。
ということで、今日は、また新たな気持ちで、「フォーゴットン・ドリームス/日向朝子監督」を見てくることにしましょう。