ん…、正直なところ期待ほどでもなかったです。ほとんど眠くなることもなく見られましたが…。
ただ、これはSFというより室内会話劇ですね。SFという意味においては「ストーカー/アンドレイ・タルコフスキー監督」の方がはるかに優れています。
結局、惑星ソラリスの海が人間の想念を物質化して、たとえばクリスの前に、彼が後悔の念を持っている(らしい)自殺した妻ハリーが現れるといった話ですから、何も宇宙の話でなくとも成り立つわけで、クリスが相対することになるのは、ソラリスの海ではなく、悔恨の念が渦巻く自分自身の内面なわけです。
それはラストシーンにもはっきり現れています。どうもソラリスの海が物質化するのは人間の夜の(意識下の)想念のようで、それならクリスの昼間の脳波(だったかな?)をソラリスの海に注入することで中和できるのではないかということになり、これもかなり単純な発想ですが、それはともかく、実際にやってみる(やってみたらしい)とハリーは現れなくなるのですが、代わりに(なぜかはよく分かりませんでしたが)母親が現れます。この母親は物資化しているわけではなく、単純なクリスの回想のようで、クリスの幼少期からのイメージが何カットか母親と共に映し出されます。母親はかなりきびしい顔をしていたように思います。きっとクリスとの間に何かある(あった?)んでしょうね。
さらに、クリスは地球へ戻りますが、家に戻ったクリスは父親の前に崩れ落ちるように跪きます。これは何なんでしょうね? 安らぎなんでしょうか? あるいは全く逆に権威への服従なんでしょうか? よく分かりません。そしてさらに、家の前のクリスと父親の画はぐっと引きになり、その家は小さな島にあり、その島はソラリスの海のなかにある画で終わります(確かそうだったはず)。
ん…、相当に観念的ですね。ソラリスの海はフロイト的にいえば「超自我」みたいなもんってことでしょうか。
それにしても意図的にドラマチックな手法を避けているようですので、カメラワークも編集も極めて単調です。それが悪いとも思いませんが、どうなんでしょう、あまり画が語るところもなく、ほとんど言葉で語っているように感じます。幾度か映し出されるソラリスの海の画にしてもほとんど言葉(観念)の補完的な役割しか持たされていないように感じますし、宇宙船の内部もほとんど日常感覚の延長線上ですし、よく話題になる未来都市(なのかな?)としての首都高のシーンも、正直「そのまんまじゃん」みたいな感じです。
よく「2001年宇宙の旅」や「ブレードランナー」と比べられるようですが、別に劣っているというつもりはありませんが、映像的には全然ジャンル(?)が違いますね。言うなれば、この映画のジャンルは西欧哲学の正当な流れをくむソヴィエト的哲学映画です。意味が分からん?