とにかく、事象、表象でもいいと思いますが、そうした、ただ単なる事柄が時系列に並べられ…
「フランス映画の知られざる巨匠モーリス・ピアラ」という特集上映がシネマテークで行われています。2本見てきました。
悪魔の陽の下に
何とも不可解な映画ですね。意図的なのかどうなのかは分かりませんが、非常に乱雑な印象を受けました。カメラワーク、編集、音声、音楽、あらゆる要素にリズムが感じられません。ジョルジュ・ベルナノスの原作があるとのことですが、シナリオがどうなっているのか、想像もできません。
これはけなしているわけではなく、とにかく、不可解なんです。
この映画は、(多分)原作を読まずして理解することは無理だと思いますし、逆に原作を読んで見れば、かなり陳腐にみえるのではないかと、そんな感じです。
多分、そもそものテーマは宗教問答だと思いますが、それを茶化しているのか、斜めに見ているのか、まともには相対しているようには見えません。もちろんリアリズムではないのですが、抽象的でもありません。とにかく、事象、表象でもいいと思いますが、そうした、ただ単なる事柄が時系列に並べられ、それに何ら解釈を加えようとしていない映画という、そんな感じです。
字幕ではなく、原語で見ないと本当のところはよく分かりませんね。
愛の記念に
実は、こちらの映画を先に見たのですが、どう理解するべきかがよく分からず、他の作品も見てみようと「悪魔の陽の下で」を見たわけです。
映画作りの手法は同じです。次々に起きる事象が時系列に並べられています。
シュザンヌ(サンドリーヌ・ボネール)は、寮に入っている。リュックという恋人がいるが肉体の関係は許していない。行きずりのイギリスの水兵に体を許す。家に戻る。家には、父、母、兄がいて仕立屋のような仕事をしている。シュザンヌは、次々と新しい男と関係を持つ。父はそのことで突然怒る。父はなぜか突然家を出る。兄が仕事をつぎ、同じくシュザンヌの行いを良く思っていない兄はシュザンヌを殴る。母は、時々、狂ったようにシュザンヌに怒りをぶつけ、殴る。
といった感じで、何の説明も、解釈も、演出も加えず、観客の前に提示している、そういうことです。
ストーリー的には、ラストは、すでに結婚しているシュザンヌが夫ではない男とどこかに旅立つカット、そして、それを空港で見送った父のカットで終わります。
観客に対して、何の提示も、押しつけもありません。それはそれでとてもすごいことだと思います。