この映画は多くの人に見てほしい!ナジフとセナダの仲良し会話が印象的で、とても和みます
この映画は是非とも多くの人に観て欲しいです。個人的には、今、最も映画の可能性を感じる手法、当事者自身が自ら経験した事実を演じるという、ドキュメンタリーでもない、ドラマでもない映画です。
ロマ族のナジフ(ナジフ・ムジチ)とセナダ(セナダ・アリマノヴィッチ)夫妻は、2人の幼い娘と共にボスニア・ヘルツェゴビナの小さな村で生活している。ナジフは拾った鉄くずを売る仕事で生活費を稼いでおり、彼らは家族4人で貧しいながらも幸せな日々を送っていた。ある日、彼が仕事から戻ると妊娠中のセナダが激しい腹痛でうずくまっていて……。(シネマトゥデイ)
二人は、車(相当ぼろい)で病院へ行きますが、セナダは流産しており、手術(胎児を摘出?)しないとセナダ自身も危険な状態です。しかし二人には980マルク(500ユーロ)、現在のレートで7万円くらいですが、そんな大金は持ち合わせていませんし、保険もありません。病院はお金がなければ手術してくれません。遠くから(都会から離れた山里風のところに住んでいる)二度も病院へ足を運び、懇願しますが、拒絶されます。ナジフは支援組織のようなところに行き、援助を頼みますが、今度はセナダが、二度も断られたのだからもう行きたくないと拒否します。
結局、義理の姉だったか妹だったかの保険証を借りて、ぎりぎりのところで命の危険は脱するわけですが、とにかく、これだけの物語であるにもかかわらず、極めて抑制的に淡々と描く、描くと言うよりも、確かにそこにある事実を1メートルの距離感で追い続けるという感覚です。
何がすごいかって、ナジフもセナダも、この状況にあって、何一つ文句も愚痴も言わないのです。かといって、泣き寝入りするわけではなく、今できることは何かと考え、できることをしようとするだけです。保険のおかげで手術は無事すみましたが、薬を買うお金がありません。さらに家に帰ると電気代が払えず、電気を止められています。で、ナジフがすることは何かと言いますと、自分の車を解体して鉄くずとして売り払うことです。
感動(?)のあまり、手法の話と内容の話がごちゃごちゃになってしまいました。
手法の話に戻せば、なぜこうした、映画的に成立した物語を構成しつつ、過剰なドラマチックさを排した、リアリティに富んだ映画ができるのでしょう?
もちろん監督次第ではありますが、いずれにしても重要なことは、ある物語の当事者が映画という形で自身の体験を第三者的に追体験すること、そして、本来、ある事実を前にしては第三者的である作り手が、当事者と共同体験的に追体験することによる、極めてまれなる緊張感がそこに醸し出されるのではないかと思います。
それはともかく、やや強面のナジフではありますが、セナダや子どもへの対し方はとても愛情豊かですし、ナジフとセナダの仲良し会話が印象的で、とても和みます。