冒頭の何分くらいだったでしょう? 夕暮れ時の牧草地。犬と戯れるように幼い女の子が駆け回る。馬が何頭か行き来している。そして、時折響く雷鳴。結構充実した長さだったと記憶していますが、つかみとしてはかなり有効なシーンだったと思います。
さらに、その映像は、スタンダードサイズの中央部分のみフォーカスが合い、周辺は二重にぼかしがかかるようなフィルターをかけ、そして、カメラ位置をかなり地面に近いところに取っていましたので、ああ、これは犬の目線なのかなあと見ていました。
ところが、そうでもないようで、一部フィルターなしの映像もあったと思いますが、その後も屋外、室内区別なく、ほとんどそうしたフィルターがかかっていました。
といった映像的なこともさることながら、その後の展開が、とにかく各シーンの関連性を理解するのが難しく、率直なところ、よく分からない映画でした。
メキシコのとある村。フアンは愛らしいふたりの子供と美しい妻ナタリアとともに何不自由ない恵まれた日々を送っていた。ところがある夜、赤く発光する“それ”が彼の家を訪問したときから、なにげない平和な日常が歪みはじめる。
掘ったて小屋で行われる依存症の集会、寄宿学校でのラグビーの練習風景、サウナに集まり乱交する上流階級の人々、光降り注ぐ浜辺にたたずむ成長したふたりの子供、不意に人に取りつく暴力、親戚が一堂に会する華やかなパーティー…光と闇が互いに戯れるがごとく交わる世界の断片は、1発の銃声によって新たな位相に導かれてゆく。フアンの家に現れた“それ”とはいったい何だったのか?禍をもたらす「悪魔」なのか、それともどこかに彼らを導こうとする「神」だったのか…。(公式サイト)
あるいは、シーンの脈絡を無視したような編集は、「物語性」の排除を意図しているのかと思いましたが、上に書いた冒頭のシーンの次にはさまれる「赤く光る不思議なもの」、公式サイトには「悪魔」か「神」かなどと煽られている「それ」は、ある意味「物語性」の象徴そのものですので、その意図があるというわけではないようです。
私には、そうした編集や映画づくりからは何も見えてこず、冷めた眼で見ているしかなかったのですが、カルロス・レイガダス監督には何かが見えているんでしょうね。
ただ、その映像処理や意味不明の展開に引き気味になりつつも、一度も落ちることなく、最後までたどり着けたのは自分ながら不思議ではありました。