消えてはいないが、結局天使はカーラ・デルヴィーニュだった。
「ペルージャ英国人留学生殺害事件(アマンダ・ノックス事件)」を題材にした映画なんですが、如何せんその事件を全く知りません。更にそうした類の事件に全く興味がありません(笑)。
なら、なぜ見にいった? って、マイケル・ウィンターボトム監督の映画を見てみたかったことと、宣伝文句に「観る者の心を揺さぶる重層的なドラマ」などとあったためなんですが、結果は「うむむ…」ですね。
すでに“アマンダ・ノックス事件”に関しては数多くのノンフィクションやドキュメンタリーが発表されており、ウィンターボトム監督の狙いは再現フィルム的なクライム・スリラーや真犯人を裁くためのミステリー映画を作ることではなかった。このうえなく惨たらしく悲劇的な殺人事件が、ふたりの若い女性を主人公にした昼メロ調のジェットコースター・ドラマに仕立てられ、大衆に消費されていったのはなぜなのか。イギリスを代表する名匠はそんなメディアの姿勢に疑問を投げかけながら、混迷した事件の闇の中に独自のヒューマンな“真実”を見出し、観る者の心を揺さぶる重層的な映画を完成させた。(公式サイト)
映画は、主人公である映画監督トーマス・ラング(ダニエル・ブリュール)が、この事件を題材にした映画のシナリオを書くためにイタリアを訪れ、その公判に立ち会ったり、取材する記者たちに出会ったりして、事件の真相に迫る(迫っていない)いう、まあよくある二重構造になったお話です。
トーマスにとって、この企画はスランプから脱する復帰作であるようです。スランプの原因は、妻との離婚と娘の親権争いであり、どうやら離婚の原因は妻の浮気にあるようです。これははっきりと語られているわけではありませんが、そう思わせるシーンがあったり、仕事仲間の会話でそう想像されるわけですが、ただ、もしそうなら親権争いは有利に進むような気がするのですが、娘が「あの男」の下で育つことが耐えられないなどと言っていましたね。
それはともかく、その悩みのせいということなのでしょう、コカインに手を出したり、幻影を見たりして、泥沼にはまり、執筆は遅々として進みません。結局、企画はボツになります。
で、かなりきつい言い方をしますと、この映画も、劇中の企画と同じようになぜボツにならなかったのか不思議でなりません。
映画に焦点が定まっていないのです。
冒頭が娘のシーンで始まり、ラスト近くにトーマスが妻と話し合おうと電話するシーンがあるように、トーマスの葛藤(というほど描かれていない)が映画の一番の軸ですし、「The Face of an Angel」の一人は娘でしょう。
表向きの Angel は、美しさゆえに死体となってもなお騒がれるエリザベスで、映画の殆どはこの事件に関することを占められており、エリザベスのシーンも回想的に何カットか挿入されていました。ところが、トーマスは本当にこの事件に関心があるようには見えないのです。
自ら進んで何かを調べようとする気配もなく、ただ悶々として、ダンテの「神曲」を引用したりして、書けない書けない(とは言っていない)と鬱々としているだけです。
要は、事件の進行とトーマスの個人的な苦悩が全く噛み合っていないということです。
「重層さ」という点でも、正体不明な人物エドゥアルド(バレリオ・マスタンドレア)を出して怪しげなシーンをいくつも入れていますが、結局何だったのかよく分かりませんし、イタリアの古い街並みを暗い夜のシーンで使って雰囲気はいいのですが、映画の厚みには結びついているようには思えませんでした。
ひとつ収穫がありました。メラニーを演っていたカーラ・デルヴィーニュさんです。バネッサ・パラディを思わせる小悪魔的な感じが良かったです。すでにモデルとしては名を馳せているようですがよく知りませんでした。
この映画のダメな話に戻りますと、このメラニーという存在もなんとも中途半端で、出演に裏でもあるのかと思わせるくらい、出番は多いのに存在理由が不明という役でした。三人目の Angel というべき扱いでしたが、これまた全く噛み合っていません。
マイケル・ウィンターボトム監督、何作か見ているのですが、未だ監督像が定まりません。