台詞の有り無しが特徴と言われないために、あるいは映像が美しい映画と言われないために
「草原の実験」って何? と不思議なタイトルですが、最後に「ああ、そういうことね」と分かります。原題が「Ispytanie」とローマ字表記になっているのは、ロシア語(キリル文字)は2バイト文字なのでラテン文字表記法という1バイト文字変換というものがあるようです。意味は TEST ということのようですが、内容的には日本的意味のテストじゃ軽すぎますね。
ロシアの新鋭アレクサンドル・コットが、旧ソ連で実際に起きた出来事にインスパイアされて作り上げた、来るべき未来を予感させる物語。時代と場所を特定せず描かれる本作は、台詞が一切ないにもかかわらず饒舌に私たちに語りかける。登場人物たちの繊細で多彩な表情、光と影の対比が美しい映像、緻密な音響設計―。その計算尽くされたファンタジーの世界に観客を引き込み、一瞬たりとも見逃す隙を与えない。タルコフスキーの『サクリファイス』をも想起させ、SF映画の要素を盛り込みながら、人間の日々の営みへの温かい眼差しに溢れた傑作に仕上がっている。(公式サイト)
「台詞が一切ない」…?
あえて排除しているということのようですが、私は無理しないで話せば、と思いますね。言葉が入ることでなにか失うものでもあるのでしょうか? 例えば、少女と青い瞳の青年の出会いでも、なぜ言葉を拒絶するのか分かりませんし、父親との日常でもあえて口を閉ざしているようにしか見えません。
言葉を排除するならするで構いませんが、もしその選択をするのであれば、やはりそれなりの合理的な説明、もちろん映画の中でですが、少なくとも不自然に見えない処理は必要でしょう。あるいはもっと挑戦的であるべきでしょう。
なぜ、そこで言葉を交わさない?と気になって映画に集中できません。
確かに一枚一枚の画は美しいです。はっとさせられるほどの新鮮さはないにしても、構図はバランスが取れて写真集を見るような趣があります。ただ、そうしたそつのない画の連続なのに、映画にあるべきリズムが感じられません。ストーリーを説明するための素材として扱われているような印象さえ受けます。
画は言葉を代替する記号ではありません。構図にこだわった画をつなぎあわせて言葉の代わりをさせても物語は生まれません。
まるで紙芝居のような映画です。
集中できなかったせいもあるのか、いくつか気になるカットがありました。見間違いかもしれませんが…。
冒頭、父親がトラックの荷台で羊を枕に居眠りをしているシーンがありますが、父親の顔に安らぎはありません。自然に身を委ねた無防備な眠りを撮ろうとしていると思われるシーンなのに顔が緊張しているのです。
やがて父親は目覚め、荷台から運転席へ戻ります。しかし、その振る舞いは毎日同じことを繰り返している手慣れた動作ではありません。どこに足を掛けて荷台から降りようか迷っている風でもあり、日常ルーチン化されていないのです。
飛行機乗りであったらしい父親がどこからかやってきた翼のない飛行機を迎えます。父親の顔は吹き付ける風を受け耐えるようにゆがんでします。体も風圧に耐えるように前に傾いています。飛行機はプロペラを回しながら父親の正面からやってきます。なぜ父親に風が吹き付ける?
青い瞳の青年が少女を巡る争いに勝ち、雷雨の中少女の家にやってくるシーンがあります。青年が力尽き倒れた時、一本の木に雷が落ち燃え上がります。その木を見る青年のカット、あれは少女の家から木を見るカメラ位置でないでしょうか?
他にも、少女が三叉路で降ろされるのはなぜなんだろう?とか、象徴的に扱われる押し花は何なんだろう?とか、いろいろ浮かんでくる疑問も、ファンタジーであるならば、それらが象徴する意味を、見進むにつれストンストンと気持よく落とし、終局に向かって言葉では語りきれない物語を浮かび上がらせていってほしいものです。
そしてラストシーン、ああそういうことね、とタイトルの意味がわかります。
少女や青年たちの生活空間はすでに有刺鉄線で閉ざされているわけですし、父親が被爆していることなどみても人体「実験」が行われたということでしょう。
少女が、受け取った(多分)退去命令を自ら風に飛ばしている(ように見えた)ことの意味がよく分からないこともあり、アレクサンドル・コット監督が、この映画に何らかのメッセージを託そうとしたのか、あるいは実験の CG の美しさを自然の美しさのごとく描きたかっただけなのか、よく分からない映画でした。
ということで、ざっとネットを見るだけでも相当評価の高い映画ですが、私にはこうしたアニメ的な映画はよく分かりません。