いわゆる男と女も、官能も、愛も、欲望も感じないけれど、山田真歩の生きてる感じが伝わってくる
原作「テレーズ・ラカン」としてみれば物足りなさも感じますが、その設定をかりて、あるひとりの(現代)女性のとらえどころのない「生(存在)」そのものを描こうとしたと考えれば、結構いい感じだったと思います。
考えてみれば、いまどき「テレーズ・ラカン」を真正面から攻めたところで二時間ドラマになるのが関の山で、その意図があったかどうかは分かりませんが、今や人間複雑(なのは人間ではなく取り巻く社会なのだが…)すぎて、よく分からないままに事は起きて、結果と原因が一本の糸で結ばれていることなどあり得ないということなのでしょう。
夫と、妻とその愛人。
わたしたちは夫の遺体が見つかるまでラブホテルでセックスをしながら待つことにした。それは三面記事にもならないような
16㎜フィルムで描き出す、女と男たちのすれ違う思い。ざらついた官能。(公式サイト)
という意味においても、山田真歩さんありきの映画です。
正直、魅力的という言葉は当てはまりませんが、とてもいい感じです。ああこの人(ひと)生きている、という感じがします。
夫を残して、愛人(渋川清彦)とふたり助かった後の車の中で愛人の唇を求めるところにしても、その後のラブホテルで自ら衣服を脱ぎ始めるところにしても、その無表情さの中の心の淀みのようなものが実にリアルです。
公開されているあらすじなどでは愛人と二人で夫を殺そうとしたとあっても、映画の中では、二人にその意志があったのかも明かされておらず、愛人との関係にしてもさほど濃密な関係があったとも思えません。
それでもこうしたことが起きてしまうのが現代なのでしょう。
愛人は当然ながら妻が何を考えどうしたいと思っているかを慮りますが、妻は夫と愛人の間で揺れ動き、自らの意思を明確にすることなどあり得ません。
妻が、救助された愛人がどさくさ紛れに言った言葉に執拗にこだわるのも納得がいきます。夫の亡霊を出し、愛人と並列に扱っているのも実に現代的です。
山田真歩さんの現代的存在感で充分にもってはいますが、ひとつこの映画に足りないとすれば、一瞬の明快さでしょう。
ラストにしても死のうとしたのかとは思いますが中途半端で唐突です。もう10分、15分長く描ききるべきでしょう。
テレーズ・ラカン? と思わせながらも、最後にはテレーズ・ラカンなど忘れさせる「一瞬」の明快さがあればと思います。