出演者がろうあ者で字幕なし、なんてことで売ろうとするのではなく、字幕をつけて映画そのもので勝負すべきでしょう
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2014年のカンヌ批評家週間でグランプリを受賞した全編手話で描かれている作品なんですが、何とも違和感の強い映画です。
手話に違和感ということではなく、なぜ字幕をつけない選択をしているのか、これは配給のレベルではなく、監督自身がtranslation翻訳を拒否しているようです。
ウクライナの新鋭監督ミロスラヴ・スラボシュピツキーの長篇デビュー作である本作は、台詞や音楽は一切なく、字幕も吹き替えすらも存在しない。登場人物すべてがろうあ者であり、全篇が手話のみによって構成されている。
とありますが、「台詞」はあるでしょう。音声はなくても「台詞」はあるでしょう。手話を理解出来ない者には分からないだけで普通にコミュニケーションはありますし、それを見るものに会話として伝えようとしない作り手の視点は一体何なんでしょう?
同じく
登場人物の背景や心理的な説明を全て排し、純粋な身振り、表情、眼差しによる表現方法に、観客は想像力をフル回転させてスクリーンと向き合う、という初めての映画体験に身を委ねることになる。そしていつしか彼らの会話を理解している事に気付く。
とありますが、手話は「純粋な身振り」なんでしょうか? 言葉じゃないんでしょうか?
言葉が理解出来なくても「いつしか…理解する」ことは手話に限ったことではありません。英語だって、フランス語だって、たとえ言葉は理解出来なくても見ていれば何となく分かります。
ということで、字幕をつけない意味が分かりません。手話は言語ではなく、身振り手振りだということなのでしょうか?
出演者がろうあ者で字幕なし、なんてことで売ろうとするのではなく、字幕をつけて映画そのもので勝負すべきでしょう。