ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ、この兄弟監督は、ここ10年くらいでいえば、私のなかで最も評価の高い監督(たち)です。
撮りたいものを執拗に撮り続ける手法が趣味ということなんですが、残念ながら、この映画では、そうした感覚をあまり味わえませんでした。
サンドラは飲食店で働く夫のマニュとふたりの小さな子どもとともに暮らし、
ソーラーパネル工場で働いている。
しかし、体調不良からしばらく仕事を休職していた。
ようやく復職できることになった矢先、ある金曜日にサンドラは突然に解雇を言い渡される。
社員たちにボーナスを支給するためにはひとり解雇する必要がある、というのだ。
ようやくマイホームを手に入れ、夫とともに働いて家族を養おうとしていた矢先の解雇。
しかし、同僚のとりなしで週明けの月曜日に16人の同僚たちによる投票を行い、
ボーナスを諦めてサンドラを選ぶ者が過半数を超えれば仕事を続けられることになる。
ともに働く仲間をとるか、ボーナスを取るか、シビアな選択……。
その週末、サンドラは家族に支えられながら、同僚たちを説得して回る。(公式サイト)
マリオン・コティヤールの(私が感じる)存在感が、その理由かも知れません。
ある個人の解雇を、ボーナスを天秤にかけて従業員に選ばせるという物語自体は、かなりドラマチックではありますが、ダルテンヌ監督は、それをドラマチックに描くことはなく、サンドラを執拗に追うことで何かを浮かび上がらせようとします。その何かは見る者に委ねられています。
ダルテンヌ監督のカメラは、たとえば、サンドラが「あの鳥のようになりたい(見たのが随分前なので台詞は適当)」と空を見上げても、決して「鳥」を撮ることはなく、サンドラを撮り続けます。サンドラがパン屋の中から外を歩く同僚を見つけても、決して「同僚」を撮ったりはしません。
それゆえに、主たる被写体となる人物の存在感が映画の出来不出来の決定的要素となります。もちろん、監督自らのイメージと俳優そのものの存在感の闘い(?)から、映画的人物の存在感を引き出すのは監督の力量です。
その点ですごい監督だと思うのですが、この映画の場合、見る側(私)のせい(マリオン・コティヤールのイメージ)もあるのか、ちょっとばかりもの足りません。カメラもいつもの執拗さが薄らいでいるように感じました。
マリオン・コティヤールは好きな俳優さんですが、どちらかというと、ドラマチックなドラマの中で芯のしっかりしたぶれない人物にははまりますが、ある意味自分自身をさらけ出すところから出発しなくてはいけない役柄には向かないのではと思います。
この役が役としてはまるフランス人はシャルロット・ゲンズブールでしょう。監督は、はまる俳優を選ぶ理由はないと考えるのでしょうが…。
マリオン・コティヤールがはまるのは、「君と歩く世界(邦題が我慢できない)」のステファニーのような女性でしょう。