キャリー・マリガンが女性参政権運動の闘士を好演
まず、用語の解説(というほどのことではありませんが…)から。
原題の Suffragette は、Weblio では「(特に 20 世紀初頭の英国の)参政権拡張論者、(特に女性の)婦人参政権論者」とありますが、もうひとつ Suffragist という言葉があり、こちらは「婦人参政権論者」とあります。
こういうことのようです。サフラジストとは、女性参政権を求める活動家のうち合法的な活動で実現しようとした人たち、そして、サフラジェットは、この映画で描かれている非合法活動をも辞さない活動家が、自分たちを区別するために使った呼び名ということのようです。
監督:サラ・ガヴロン
1912年、ロンドン。劣悪な環境の洗濯工場で働くモードは、同じ職場の夫サニーと幼い息子ジョージの3人で暮らしている。ある日、女性参政権を求める運動の現場に出会い大きな転機が訪れる。下院の公聴会で、工場での待遇や身の上を語る経験を通して、初めて彼女は”違う生き方を望んでいる自分”を発見する。やがて彼女は家族との関係に悩みながらも女性参政権運動に加わる道を選ぶ。(公式サイト)
たしかに冒頭、モード(キャリー・マリガン)が出会う WSPU(女性社会政治同盟)の行動は、投石で商店のガラスを割る行為でしたし、その後も爆弾によるポストや電話線の破壊、そして大臣だかの別荘の爆破とかなり過激ではありました。
この映画、「実話に基づく」とはありますが、確かに WSPU の活動はああいった感じだったのかもしれませんし、カリスマ的なエメリン・パンクハースト(メリル・ストリープ)も実在の人物であり、最後のダービーで国王の馬に飛び込んで死亡した女性の話も、実写のフィルムが使われていましたの事実なんでしょう。でも、多分物語のほとんどはフィクションでしょうし、モードやグループのリーダー的存在イーディス(ヘレナ・ボナム=カーター)も架空の人物だと思います。
そのあたりの中途半端さが影響しているのか、映画の焦点が定まっていない印象を受けます。
前半、モードが公聴会で証人として自分の境遇を語るあたりまでは、テンポもよく、動きのあるカメラワークで引き込まれる作りでしたが、その後はテンポも落ち、モードの迷いが家族関係、夫と諍いや子供との別れを中心に描かれており、女性参政権獲得の運動への思いがもう一つ画からはにじみ出てこなかったです。
その点で、モードの思いが過激化していく必然性のようなものが描ききれていない感じです。
クライマックスに使われていたダービーのシーンもやや唐突で分かりにくかったですね。つまり、その事件自体は史実なんでしょうが、そこへ持っていくためにやや強引さが生まれてしまっています。
モードが加わっているイーディスのグループは、最も先鋭的なグループであり、様々な権力の弾圧のなかで、国王への直訴を思い立ち(モードが言い出しっぺ)実行しようとしますが、当日、リーダーであるイーディスが夫の反対で参加できず(ここらあたりが適当すぎ)、私の見落としかもしれませんが、国王の馬に体当りして死亡するもう一人の女性も、あれ?この人だれだっけ?といった感じで、クライマックスの割には盛り上がりを欠く出来でした。
それと、中盤から後半にかけての緊迫感を生み出すために、モードと刑事の対立、そして共感のようなものを持ってきていましたが、そうした、ある意味ハリウッド的なパターンを持ってきているのも肝心な問題がぼけてしまっている原因です。
刑事(ブレンダン・グリーソン)は、モードをターゲットにしてグループを切り崩そうとし、モードに「どんなに頑張ってもお前は歩兵だ」と運動への裏切りを迫りますが、結局モードは「あなたも(権力の)歩兵よ」と切り返します。
結局、焦点が定まらない理由は、あれもこれも求めようとしたからでしょう。受けも必要ですし、シリアスさも必要ですし、史実も重要ですしということだろうと思います。
ところで、映画とは離れてしまいますが、この映画を見ていて最初に考えていたことは、なぜイギリスで共産主義革命が起きなかったのだろうということです。最も最初に資本主義が成熟し帝国主義段階に達したイギリスであれば、そして、映画で描かれているような過酷な労働環境であれば、革命が起きても不思議ではなかったのにと思います。
どうこうと言えるほどイギリスのことに詳しくはありませんが、いずれにしても、権力は敵対する勢力を分断し、仲間同士で争わせることで、維持を図るということだけは間違いがありません。この場合は「男」と「女」という意味です。
話がとんでもない方へいってしまいましたが、それにしても、キャリー・マリガン、相変わらず可愛いですね。特別意識はないのですが、数えてみれば10本近く見ています。