ナタリーは監督自身の反映であり、その未来への迷いかもしれない
昨年2016年のベルリン金熊監督賞受賞作です。
ミア・ハンセン=ラブ監督の映画は、このブログには「EDEN」しか書いていませんが、デビュー作以外はすべて見ています。エリック・ロメールの後継者などという枕詞がつくくらい評価は高い監督です。
シナリオも、「EDEN」が兄であるスヴェン・ハンセン=ラヴさんの DJ 経験を題材にしていることから共同でクレジットされている以外は、全て本人が書いているようです。
監督:ミア・ハンセン=ラヴ
パリの高校で哲学を教えているナタリーは、教師の夫と独立した二人の子供がいる。年老いた母親の面倒をみながらも充実した日々。ところがバカンスシーズンを前に突然夫から離婚を告げられ、母は他界、仕事も時代の波に乗りきれずと、気づけばおひとり様となっていたナタリー。次々と起こる想定外の出来事。だがナタリーは、うろたえても立ち止まりはしない。(公式サイト)
実際にどのように脚本を書き、どのように撮っているのかは分かりませんが、一般的に言えば、ものを作ることにおいて、何でも自分でやる人は才能ゆえにあれもこれもと過剰になりやすい傾向がありますが、この監督はまったくそういうところがないです。
どの映画も物語性に頼らないシンプルさが特徴で、人間性そのもの、あるいはその関係性、そしてどう生きるかといったことへのこだわりを強く感じる映画ばかりです。
この映画では、そのシンプルさに加えて、さらに余計なものを削ぎ落としたタイトさが際立っており、多くの場合、物語性のポイントとなる人の死や別れなどをあえて直接的に描くことを避けているようにも見えます。
実際、ナタリー(イザベル・ユペール)は、ある日突然、夫ハインツ(アンドレ・マルコン)から好きな女性ができたから別れてくれと、当事者にしてみれば泣き叫びたいくらいのショッキングなことを言われるのですが、何と、「なぜ私に言うの? 隠れて会って(と言った内容だったと思う)」と答えます。
その言い回しは、イザベル・ユペール本人のキャラクターもあってか、決してその場の強がりだけではなく、何割かは本音でもあり、また大人が取るべき態度は何かといった様々な考えの結果として実にリアリティのある言葉となっています。
母イヴェット(エディット・スコブ)の死も、施設に入っている母がどこからか落ちたと連絡を受けた次のシーンはもう葬儀の段取りといった具合です。
そうしたつくりの意図するところが何かは分かりませんが、ただそうした描き方によって見えてくることは、決して後ろを向かないナタリーの強さであり、そしてまた、その強さは前を見ることでしか弱さを隠すことが出来ないことの裏返しだということです。
この映画のナタリーはとにかくよく動きます。ナタリーが動けば当然カメラはそれを追いますし、ナタリーが動いていない時はカメラが微妙にパンしたりと、常に動的な映像が意識されています。
そうしたことからナタリーは常に前へ前へと進み、周りのものが皆置いてきぼりを食らったように印象づけられます。
夫が典型的ですが、別れてはみたものの何かしっくりきていないようで何やら未練らしきものがあるように見えます。
子どもたちも、ある一定の距離感を保ったままそれ以上近しく感じたことがないかのようなある種冷めたものをもっているように見えます。
母親のわがままにも決して怒ることがありません。あるいは母親はこれだけ勝手なことを言っているのだから怒ってよと思っていたかもしれません。
ナタリーがその年(50代?)まで何を求めて前へ前へと生きてきたかは分かりませんが、すでにその思いが家族に向いていないことは明らかです。
じゃあ何かといいますと、息子がはからずも言うように理想の生徒である教え子のファビアン(ロマン・コリンカ)でしょう。
ところが、ファビアンはすでにナタリーのいる地平とは次元が違うところへ行ってしまっています。
ファビアンはアナキストとして仲間たちとフレンチ・アルプスで共同生活をして暮らしており、バカンスシーズンにそこを訪ねたナタリーに相当厳しいことを言います。台詞ははっきり記憶していませんが、あなた(ナタリー)は自分の世界に満足しているだけで行動せず何も変えることはできないといったような意味だったと思います。
いずれにしても、自分は五月革命も経験し、共産党にも入党したことがあり、行動してきた知識人であると考えてきただろうナタリーにはかなりのショックだったと思います。
ただ、ここでもナタリーは弱みを見せません。強く見せること以外に生きる方法を知らないかのようです。
ところで、五月革命に加わっていたとすれば年齢があいませんね。1968年ですから、仮に当時18歳とすれば現在67歳になります。ってことは、この映画、時代設定は10年くらい前? あるいは、見間違い?
ともかくも話を戻しますと、結局、周りの人間は皆去っていきます。言い方を変えれば、前へ前へと進むことしか知らないナタリーにしてみれば、なぜみんなついてこれないのということでしょうし、周りに人間にしてみれば置き去りにされているような気がするのだと思います。
結局、ナタリーは、同志であり、夫であり、家族であり、そのすべての関係に満たされたかったのでしょうが、如何せん人間弱さを見せなければ他人との関係は築けません。
この映画、哲学者の両親という設定はミア・ハンセン=ラブ監督自身のもののようですが、あるいはナタリーにも監督自身が反映されているのかも知れません。