これは単なる「ネスレ・ボイコット」的告発映画でも、勇気あるひとりの男の物語でもない。
この映画、公式サイト(下に引用)の解説などを読みますと、グローバル企業の不正を暴く告発映画のように思われるかもしれませんが、そう簡単な問題ではありません。
確かに、「巨大企業の悪」対「それに立ち向かう正義の一個人」という図式は、宣伝上は受けるかもしれませんが、ダニス・タノヴィッチ監督の意図は、もう少し違ったところにあるような気がします。
前作の「鉄くず拾いの物語」を思い返してみれば、世の中の理不尽さや社会の不公平さを描いていながら、そのことがことさら強調されることはなく、ただひたすら家族のことを思うひとりの男の姿を描いているだけでした。
監督:ダニス・タノヴィッチ
パキスタンで大手グローバル企業に就職したアヤンは、赤ん坊の粉ミルクを手に病院を行き来、ついにトップセールスマンになる。しかしある日、不衛生な水で溶かした粉ミルクを飲んだ乳幼児が死亡していることを知る。その事実を知っていながら責任放棄をする企業。アヤンは世界最大企業を訴えようとする。しかし、立ちはだかる巨大な権力の壁。ついには人生の全てを投げうって立ち向かう。(公式サイト)
引用したストーリーを補足しますと、
まず、映画の中の大手グローバル企業というのは「ネスレ」のことであり、粉ミルクの問題というのは、ネスレだけではないのでしょうが、そうした企業が東南アジアなど発展途上国へ進出するにあたって、医師や病院に(映画の中では付け届けや賄賂を使い)入り込み、母乳より人工乳を勧めることで販売を推し進め、結果として、インフラの整っていない地域では汚れた水でミルクを作ることから(映画の中では下痢による脱水症状などの)病気を引き起こし乳児たちが死に至るという社会問題です。
で、主人公のアヤン(イムラン・ハシュミ)は、そのことを知らずに粉ミルクを売りまくるわけですが、上にも書きましたように、医師や看護婦(士)に付け届けや賄賂を贈って営業成績をあげるわけです。
このあたりの描き方がかなり重要で、つまり付け届けや賄賂は日常的なことであり、誰もが悪いことだとは思っていないのです。アヤンの上司はそれ用の現金を渡し、賄賂を使って売り込むことを推奨しますし、アヤン自身も悪いことだと思っていません。医師は何らかの見返りを提供する営業マンと優先的に面会しますし、看護婦(士)も付け届けを喜んで受け取り、要求もしたりします。
そして2年後、友人の医師から「お前の売っている粉ミルクで赤ちゃんが死んでいる」と責められたアヤンは、会社を辞める決心をし、会社宛に販売中止を求める要求書を送ります。確か「15日以内に販売を中止しなければ…」といった内容でしたので、法的な告発状ではなく会社宛の要求だったと思います。
そこらあたりまでが前半で、後半はアヤンと会社(映画の中ではラスタ社)との対立の中でアヤンの家族が危険にさらされたりすることでドラマが生まれていくわけですが、たしかにこれだけなら単純な告発映画でしょう。
実は、この映画、冒頭は、その何年後かに、アヤンとある映画製作者が skype で打ち合わせをするところから始まるのです。
その映画製作者たちは、この粉ミルクをめぐる問題をドキュメンタリーとして映画化しドイツで放映しようとしており、企業絡みの話であるだけに弁護士を交えたリスクマネージメントをしているわけで、その際のアヤンの話が映像として我々に見せられるという構成になっています。
上に、会社名が映画の中ではラスタ社と書きましたのは、この映画が二重構造になっていますので、映画の中というのはドキュメンタリーの中ということであり、この「汚れたミルク」の中でははっきりとネスレ社と語られています。映画製作者の「実名で問題ないか?」の問いに弁護士が「実名はだめ」と答えています。
で、この問題のドキュメンタリー化が持ち上がったのは、アヤンが会社を告発しようと行動を起こす過程で人権団体の女性と出会い、(多分)その女性がドイツの映画製作者に話を持ち込んだのだと思います。
このあたりも重要で、アヤンはこの問題を告発するにあたり、たとえば警察などの公的団体に告発しようとの発想さえなく、直接会社に要求書を送っています。どうやら、一個人が社会的不正を告発しようにも持って行き先がない社会であるようです。
実際、アヤンが決定的な脅しを受けるのは、営業過程で知り合った軍関係の病院長からであり、その人物はラスタ社と組んでいることを隠そうともしません。脅しに屈しないアヤンはその場で拘束されてしまいます。
ただ、この拘束、ちょっと曖昧で、これが(映画内で)事実であったのか、事実であったとすればどうやってその拘束は解かれたのかは語られておらず、あるいは結末への伏線だったのかも知れません。
いずれにしても、アヤンは身の危険を感じるまでの状態になり、両親や妻たち家族をどこか(よく分からない)へ避難させ、映画製作者たちの「映画がドイツで放映されれば君は英雄として国へ帰ることができる」との勧めもあり、自分は映画のキャンペーンのためにドイツへ向かいます。
そしてドキュメンタリーの放映直前、とんでもないことが明らかになります。
実は、アヤンは会社との金銭的取引に応じようとしていたのです。
結局、放映は中止となり、アヤンは英雄として自国へ帰ることはおろか、両親を看取ることも出来ず、妻や子どもを残したまま、ひとりカナダ・トロントで暮らしています。もちろん会社との取引に応じたわけではありません。
そしてエンドロール、現在、アヤンはトロントに家族を呼び寄せタクシードライバーとして家族とともに暮らしているとのことです。
こうしてみてみますと、この映画が単純な社会的不正の告発映画ではないことがわかります。
アヤンは自分が売った粉ミルクのせいで子どもたちが死んでいくことを知った時、そのことに耐えられずラスタ社を辞め告発しようとします。
また、その過程で家族が危険にさらされ迷いが生じますが、妻の「自分の信念を貫けない人は尊敬できない」との言葉で再び立ち向かう決心をします。
アヤンは正義感が強く自分の意志を遂行できる人間であることは間違いないでしょう。
一方、彼らが生きている社会は、付け届けや賄賂が不正だと認識されていない社会です。権力と企業の癒着も相当なものでしょう。
この映画が語っているのは、そうした(発展途上の)社会で、ある一個人が(先進国の)多国籍企業という強大な力に立ち向かおうとし、その結果、自分だけではなく妻や子どもまでも危険にさらされることになり、どうすることもできなくなったそんな時、相手から金銭取引を提示され、迷った末に結局取引には応じなかったにもかかわらず、その多国籍企業の所属する先進国では、その個人のほんの一時の心の迷いが強大な企業の大いなる不正や過失と法的に同等に扱われるということです。
そうしたことを告発しようとも、それをしようとした人物を讃えようとしているわけでもなく、そのことをあるがままに語っているだけのように思います。