午後8時の訪問者

ダルデンヌ兄弟、相変わらず隙がなく完璧!

ダルデンヌ兄弟監督の映画は、どの作品も全く隙がありません。

多くの場合、映画を見ていますと、え、そこで切るの?とか、もうちょっと見せてよとか、(カットが)長いなあとか、何かしら気になることはあるのですが、この監督の作品ではそうした気持ちを感じた記憶がありません。

「ロゼッタ」以降、オムニバス以外は全て見ていますし、いつも公開が待ち遠しく感じられる監督です。

監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌ&リュック・ダルデンヌ

診療時間を過ぎた午後8時に鳴ったドアベルにジェニーは応じなかった。その翌日、診療所近くで身元不明の少女の遺体が見つかる。それはベルを鳴らした少女だった。少女は誰なのか? 彼女の名を知ろうと、必死で少女のかけらを集めるジェニーが見つけ出す意外な死の真相とは──。(公式サイト

全編、ダルデンヌ兄弟監督らしい緊迫感がみなぎるいい映画でした。

この監督の特徴的な撮影スタイルは、ひとりの人物を手持ちカメラで追い続けるというもので、前作「サンドラの週末」ではマリオン・コティヤールのサンドラ、前々作「少年と自転車」ではシリルとサマンサがそうでしたが、この作品では医師であるジェニー(アデル・エネル)がその被写体となります。

あえて「被写体」という言葉を使うのは、それがドキュメンタリー映画を語る場合に多く使われる言葉であり、またこの監督がドキュメンタリーを撮ることからスタートしているからで、やはりこの映画も、徹底してその手法が使われているからです。

物語は、上に引用したように医師のジェニーが(見方によっては)自分の過失で亡くなった少女のことを調べ歩くわけで、事件なのか事故なのかわからないということもあり、ある意味では謎的なものが明かされたり、ジェニー自身がやや危険を感じるようなシーンもあり、サスペンスタッチのつくりとなっています。

ただ、この映画が持っている緊迫感は単にサスペンスだからというわけではありません。

カメラは、ジェニーにまとわりつくように、ジェニー自身、あるいはジェニーが見るものしか捉えません。当然ながら、スクリーンを見る我々は、ジェニーが見、そして感じることと同じような感覚に置かれることになります。

かと言って、ジェニーと同一化するわけではなく、微妙な距離感、いうなればある個人が自分の中にもうひとりの自分を持つような感覚に近い位置に置かれるのです。まさしくそれが監督の目線なんだろうと思います。

たとえば、ことの発端であるドアベルに応答しなかったシーンを考えてみますと、その時ジェニーは、研修医であるジュリアン(オリヴィエ・ボノー)に対して、これは映画の中で本人も語っていることですが、医師と研修医という力関係(上下関係)を示そうとしています。つまり、ドアベルが鳴ったのが、医師としての心得を教え諭そうとしている時であったがゆえに応答しなかったのであり、ジェニーひとりの時であれば応答しているでしょう。

こうしたことは日常的に誰にでもあることで、その時の「ああ、あの時…」とか、「ああ、あれが…」とかの後悔やら自責の念やら、あるいは何かに当たりたいような複雑な気持ちは誰もが経験していることだと思います。

ファーストシーンからして、そうしたジェニーと同じ位置に引きずり込まれる、いやそれほど強引ではありません、言うなれば、巧みな設定と隙のない映画的手法で疑似体験させられるような感覚と言えばいいのでしょうか。

映画の中のジェニーには、さらに少女の死という結果が突きつけられるわけですから、良心の呵責もからみ、かなり厳しい状況に陥ります。

このサイドストーリー的なジュリアンとの関係がかなり効いています。

ジュリアンは、上に書いたファーストシーンで、ジェニーにかなり厳しく諭され、それを機に医師になることを諦めてしまいます。決定的な理由ではないにしても、ジェニーにはかなりショックであり、気になって仕方なく、(多分)嫌がっているジュリアンに電話をしたり、引っ込んだ田舎を訪ねたりします。

やがてジュリアンは、医師の道を諦めようとしたわけをジェニーに話し、結局再挑戦することになるのですが、その進展具合が少女の件と微妙にシンクロしており、このジュリアンの物語があってこそのこの映画だと思います。

ちなみに、ジュリアンが語ったわけは、子供の頃父親から暴力を受けており、それゆえに医師への道を志したのであり、またそれゆえに患者である子どもの苦しむ姿に自分の過去が反映されて手足がすくむことがあり医師には向いていないと感じたということです。

少女の死は、結局殺人ではないものの複雑な人間模様が絡んだ事件絡みの事故ということかと思いますが、そのいきさつはこの映画の決定的な要素ではないでしょう。仮にすべてを知って見たからといってこの映画の魅力が失われるわけではないと思います。

少女が亡くなったいきさつはさほど複雑ではないのですが、それが明らかになっていくことで見えてくる人間関係はかなり複雑と言えば複雑、簡単に書きますと、ジェニーが主治医の母子がおり、母親は(多分)精神を病んでいる風であり、子どものブライアン(ルカ・ミネラ)も心を閉ざしているようです。ジェニーは、ブライアンが何かを知っていると分かり、少女が売春婦であり、ある場所のキャンピングカーで少女を見たと聞き出します。

キャンピングカーの持ち主、この俳優さんはダルデンヌ兄弟の常連オリヴィエ・グルメさんですが、この男は介護が必要な父親に売春婦を世話したりしていますがこの事件とは無関係です。

このあたりで、車で走行中のジェニーが二人の男性に襲われ「これ以上嗅ぎ回るな」などと脅されるシーンがあり、ちょっとドキッとしますが、この場面でもカメラの視点は変わりませんし、ジェニーの気丈な態度もあって、ドラマチックなドキドキ感を感じることはありません。

で、ある日、ブライアンの父親、この俳優さんも常連のジェレミー・レニエさんですが、ジェニーを訪ねてきて、自分と少女との間にいざこざがあり、少女を追いかけたら川に落ちたのでそのまま逃げたと告白します。

ブライアンは父親と少女の何かを見て、それを隠そうとしたのでしょう。

省略しましたが、この告白に至るまでにはいろいろあって、父親がジェニーを訪ねるのは二度目ですし、腰の痛みで動けなく夜中にジェニーを呼び出したこともありますし、告白後は自殺騒ぎを起こしますし、夫婦は別居中のようですし、けっこう大変な家族ではあります。

で、これで終わりというわけではありません。その後のある日、ジェニーが少女の写真を持って訪ね歩く過程で寄ったインターネットカフェにいた女性が訪ねてきます。

その女性が語るには、写真を見せられた時は知らないと言ったが、実は少女は自分の妹であり、自分と暮らしている男によって自分や妹が売春をさせられていたこと、そしてその男の気持ちが妹へ向くことの嫉妬から(複雑な気持ちで)知らないと言ったのであり、今、ジェニーに「ありがとう」と言いたくてやってきたといいます。

玄関先まで送ったジェニーが女性に言います。

「抱きしめていい?」

二人は抱きしめあって別れます。

ジェニーを演っているアデル・エネルさん、いいですね! 最近では「スザンヌ」を見ています。

カメラは常にジェニーを追っていくわけですから、その俳優の出来が映画の出来不出来に直結します。

つまり、俳優も映画もとても良かったということです。

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