パターソン

オリジナル詩篇による、ありふれた日常ではない、詩集のような映画

ニュージャージー州パターソンって何処だろう?と GoogleMap を見てみましたら、マンハッタンから北西へ直線距離で 25kmくらいの町なんですね。

https://goo.gl/maps/QBPEXrTADWP2

映画では、滝や渓谷のようなロケーションもあり、もっとローカルな印象だったんですが、車ですと NYまで高速道路で15分とか、 通勤圏内ですかね?

ラストちかくのアダム・ドライバーと永瀬正敏のシーンは、「グレート・フォールズ・パーク」でしょう。ストリートビューで見ますと映画にあったベンチやネット柵もあります。

https://goo.gl/maps/j7VGTdyst1N2

監督:ジム・ジャームッシュ

ニュージャージー州パターソンに住むバス運転手のパターソン。彼の1日は隣に眠る妻ローラにキスから始まる。仕事に向かい、心に芽生える詩をノートに書きとめていく。妻と夕食を取り、愛犬マーヴィンと夜の散歩。バーへ立ち寄り、1杯だけ飲んで帰宅しローラの隣で眠りにつく。ユーモアと優しさに溢れた7日間の物語。

バスの運転手であり、詩人でもあるパターソン(アダム・ドライバー)の1週間、月曜日から日曜日が、象徴的に、というより記号的にの方が近いような印象ですが、たとえば上に引用した画像のように、パターソンの起床は妻ローラ(ゴルシフテ・ファラハニ)と寄り添って寝るベッドを上から撮った画で始まります。月曜日は一番上、火曜日が二番目であったかどうかは記憶していませんが、色んなパターンで撮られていました。

起床時間は。目覚ましを使うことなくおよそ6時15分くらいに目を覚ますのですが、パターソンが腕時計を見ると、12,3分であったり、20分くらいであったり、非日常的な問題があった翌日はすでに起きていたりと、これもかなり記号的に微妙にずらしてあります。

朝食はひとりでシリアル、妻が作ったサンドイッチを持って職場に向かい、出発前のバスの車庫では同僚と会話を交わし、定刻に仕事が終わればまっすぐ家に帰り、夕食を済まし、夜は愛犬のマーヴィンと散歩、その途中でバーに寄り、マスターとおしゃべりをし家路につく、まずは、そんな毎日のウィークデイ5日間が続きます。

ただ、細かいところでくすっと笑える要素が織り交ぜてあったりします。

たとえば、同僚との会話はいつも「調子はどうだ?」的に始まるのですが、同僚の答えは少しずつ変化したり、バスの乗客の会話をパターソンが聞いているという演出で、毎日違った乗客の話を取り上げたり、愛犬マーヴィンの行動を少しずつ変えたり、バーのシーンには顔なじみのエピソードを折り込んだりと毎日の繰り返しといっても見ていて飽きることはありません。

で、重要なのは、パターソンが詩人であり、職場への徒歩での行き帰りや車庫で出発を待つ間、あるいは運転中など、詩作しノートに書きとめています。パターソンの毎日は「詩」とともにあるということです。

バスの運転手が、趣味で「詩」を書いているわけではありません。運転手という職業が「日常」で詩作が「非日常」ではなく、運転手という職業も詩人であることも全てが日常であり、非日常ということでしょう。

おそらくそれは、この映画のモチーフとなっている(と思われる)詩人 ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ が、同じくニュージャージー州ラザフォードに生まれ町医者として暮らしつつ詩人であったことにインスパイアされていることではないかと思います。このウィリアム・カルロス・ウィリアムズには「パターソン」という詩集があります。これですかね?

archive.org

映画の中でパターソンが詩作する詩があり、あるいはこのウィリアムズさんの作品かと思いましたが違いますね。Ron Padgett さんという詩人がこの映画のために書いたオリジナルの散文詩のようです。

結構印象的だった最初に出てくるオハイオマッチ(?)の詩は『Love Poem』、子供の頃の3次元、4次元の詩は『Another One』など、著作権状態がよく分かりませんのでリンクだけにしておきますが、下の動画でテキストが見られます。

Paterson – All Best Poems – YouTube

ということで、この映画、ウィークデイはほぼ詩集のような映画なんですが、休日の土日に事件が起きます。

事件というのは妻のローラ絡みなんですが、このローラ、どう表現すべきか難しいところで、いうなればオタク系とでも言えばいいのか、インテリアなどのデザインといいますか、カラーリングといいますか、かなりこだわりが強く、家中のものを白黒のモノトーンでカラーリングしてしまいます。

それを思い立ってやるということではなく、今日はカーテン、次の日は自分の着るものといった具合に、毎日それが仕事のように無心でペイントしたりしています。特別仕事は持っていないようで、カップケーキを作って週末のバザーで売ることもやっているようです。ちなみにそのケーキも白黒のモノトーンです(笑)。

で、土曜日、そのケーキが完売したらしく280ドルくらい収益があり、お祝いに外で食事し映画を見に行くことになります。ところが、家に戻ってみれば、床に紙くずが散乱しています。

パターソンの詩作のノートです。愛犬マーヴィンが引きちぎってしまったのです。マーヴィンは二人のデートを嫉妬したのか(笑)、よほどお腹が空いていたのか、そう言えば二人のキスシーンに必ずといっていいほどアーヴィンのカットを入れ吠えさせたり唸らせていたように記憶しています。

いずれにしても、ノートは元には戻せなく「詩」は消えてしまいました。

そして日曜日、意気消沈したパターソンは、冒頭にリンクしておいた「グレート・フォールズ・パーク」で日本人の詩人(永瀬正敏)と出会います。

正直、このシーンはよく分からないのですが、印象に残っているのは、詩人は、ウィリアムズさんの『パターソン』の翻訳本(原文付きだったと思う)を持っていて、パターソンに話しかけるのですが、その台詞に「詩を翻訳で読むのはコートを着てシャワーを浴びるようなものだ」というのがあり、だからこの場に来て「詩」を感じたかったのだといったようなことを言っていました。

おそらく、町そのものが「詩」であり、暮らしそのもの、それが「日常」であれ「非日常」であれ、すべて「詩」の源だということなのでしょう。

この映画はありふれた日常を描いているわけではありません。繰り返しであるという記号化された「日常」とそこからはみ出そうとするちょっとした「非日常」の隙間から「詩」は生まれるということだと思います。

おまけです。

私がひねくれているのか、アダム・ドライバーのキャラなのか、あるいはジム・ジャームッシュ監督の意図なのかは分かりませんが、パターソンはローラのセンスを喜んでいませんし、食事に出されるパイやカップケーキを美味しいと思っていませんよね(笑)。私にはそう見えましたが、どうなんでしょう?