花咲くころ

1992年トビリシ、14歳エカとナティアの二人は確かにその時そこで生きていたという映画。

この映画、2013年の製作で、その年の東京フィルメックスで最優秀作品賞を受賞している映画です。

とてもいい映画で私はお勧めしますが、こうしたやや地味とも言える映画の公開は難しいのでしょう。まさかジョージア出身の栃ノ心が優勝したタイミングを見計らったわけでもないでしょうが、時代に関係なく残っていって欲しい映画です。

1992年のジョージアの首都トビリシに暮らす14歳の少女二人を中心にした映画です。監督のおひとりナナ・エクフティミシュヴィリさんが1978年生まれとのことですので、何かしら監督の実体験が反映されていると思われます。

 監督:ナナ・エクフティミシュヴィリ、ジモン・グロス

公式サイト 

こうした映画の良さを言葉で伝えることはとても難しく、だからこそいい映画ということになるのですが、何ていうんでしょう、ひとことで言ってしまえば、ありきたりな言葉ですがリアリティということで、ただそれも事実であるとかないとかではなく、確かにそこに人(々)がそのように生きており、そうしたことがあったに違いないと感じるということです。

この映画で言えば、1992年のトビリシには、確かにエカ(リカ・バブルアニ)とナティア( マリアム・ボケリア)という二人の14歳が存在し、様々な思いを抱えながらも日々学校へ通い、時に言い争いもし、時に互いを思いやりながら、ひとりは自分自身の望みであるかどうかも分からぬまま結婚し、またひとりは必死で自分自身が何者であるかを確かめたいと思い悩み一歩踏み出す決心をするのです。

そうした二人の春から夏にかけての2,3ヶ月の出来事が、ソ連邦から独立後の内戦状態という時代背景とその影響もあるのでしょう、大人たちが撒き散らす殺伐たる空気の中で描かれていきます。

おそらく二人には、特にエカには、家族も同級生もまわりの大人たちも、そして自分を取り巻く環境すべてがとてもよそよそしく感じられていると思われます。

そして映画は、見る者に、果たしてその二人が自分自身の未来を思い描くことができる環境に置かれていたのだろうかと問うてくるのです。

エカの家族は母親に姉の3人暮らしです。エカは年齢特有にも見える憂鬱さを感じさせ姉や母とぶつかったりしています。また、学校への行き来や外出時に同年代の男の子にからかわれたり苛められたりしますが、無視して耐えています。

一方のナティアは両親と祖母と弟と暮らしていますが、父親はアル中(と公式サイトにある)で両親の間には喧嘩が耐えません。

エカの父親については、映画の中ほどまで何も語られませんのでいないんだなあ程度にしか感じないのですが、実は冒頭からとても上手くいくつかのシーンが挿入されており、次第にああそういうことかと分かるように作られています。

こういうことです。

ある日、母親に手紙が来ます。エカが何が書いてあるのと尋ねても母親は答えようとしません。

またある日、エカが母親の部屋に入り引き出しから小箱を出し中を見ますと、そこには手紙の束と1本だけ残された煙草の箱が入っています。ただ、それを初めて見たように描かれているわけではありません。

そして、ある時、エカは、お父さんはコプラ(いじめっ子の一人だと思う)のお父さんを殺したの?と尋ねます。つまり、父親は刑務所に入っているということです。

そして、またある時、母親と姉が父親の面会に出かけようとしますが、エカは母親の説得にもベッドから出ようとしません。

このことの前であったか後であったかはっきり記憶はしていませんが、母親に父親の住所(刑務所の?)を尋ねるシーンもあります。

映画は、このエカの父親のことを軸に進めているわけではなく、様々な日常の出来事の中にこうしたことを挿入しており、そしてそれがラストシーンにつながっていきます。

ラストシーンのことは後回しにして、ナティアについて触れますと、ナティアはエカよりは大人っぽい雰囲気を持っているからなのか、二人の男から言い寄られます。今はモスクワへ行っているらしいラダと地元トビリシのコテ、ただナティアにしてみれば、言い寄られることに悪い気はしなくとも、それが愛であるのかどうかもわからない14歳ということでしょう。

ある日、モスクワから戻ったラダが護身用にとピストルを渡します。え?と思いますが、そういう社会なのでしょう。

ナティアはエカがコプラにいじめられていることを知っていますので、ピストルをエカに渡します。エカは戸惑いつつも受け取り隠し持つことにし、ただ一度、前後の経緯は記憶していませんが、そのピストルを使い、たまたま不良たちに襲われているコプラを助けます。シーンはただそれだけなのですが、見ている者にはそれにより様々な想念がひろがります。

この映画は一貫してこうした我々には結構インパクトのある出来事をさらりと見せていきます。こうした手法が逆に見終わったあとにずっしりと効いてくる映画だということです。

ナティアの話に戻しますと、エカと二人でパンを買うために長蛇の列に並んでいるとき、突然車で乗り付けたコテとその仲間たちに拉致され連れ去られます。

え!?何が起きたの?と、こちらはびっくりなんですが、映画の中の列に並ぶ大人たちは何をどうするわけでもなく、ひとりエカがなんで助けてくれないと叫ぶものの、逆にひとりの男に殴られてしまいます。

こうしたことも淡々と進んでいくすごい映画なんです。

で、その拉致行為ですが、略奪結婚ということが実際にあるらしく、何と映画はその後ナティアとコテの結婚式になるのです。

これ、びっくりしますよ。

この結婚式のシーンにむちゃくちゃいいシーンがあります。何を思うのか憂鬱そうなエカですが、結婚式も盛り上がり、大人たちが踊るその中に突如エカがひとりですうーと入り踊り始めるのです。見ていても何が起きたのと思うくらい唐突なんですが、不思議と全く違和感がないのです。

映画を見ている時点では、その踊りの意図するところは具体的には分からず、私は女性の労働を模した民族舞踊なのかなと思って見ていたのですが、本来は男性の踊りだと書かれている記事もあり、よくは分かりません。ただ、なにがしか抵抗の意味合いを感じさせる踊りであり、私はじわっと涙が滲んできました。

その後の、エカがコテの家にナティアを訪ねるシーンもいいシーンで、そうした多くは説明されなくてもなんとなく伝わってくるシーンの連続というのがこの映画の本質かと思います。

で、物語の展開としては、映画としてのクライマックス的な事件が起きます。

ラダがモスクワから戻ってきます。特別何かがあったわけではないのですが、コテは親しそうにするナティアとラダに嫉妬し、仲間と連れ立ってラダを襲い、仲間の一人がラダを刺してしまいます。

それを知ったナティアはエカに預けたピストルを返せと興奮状態で荒れ狂い、エカは売り言葉に買い言葉的に殺してくればいいとピストルを渡します。

しかし、何も起きなかったのでしょう、その後、エカが池にピストルを投げ捨てるシーンが挿入されています。

映画全体にそうなんですが、なぜそうなったのかとか、ラダは死んだのかとか、コテはどうしたのかとか、そうしたことはほとんど明かされることはなく、見る側の判断に委ねられています。言うなれば、監督たちは、そうした何がどうしてどうなったというストーリーを見せることに関心はなく、ただ、1992年のトビリシには確かにエカとナティアという二人の少女がいて、その春から夏にかけて、あるいはそれが二人の一生を決めることになるかもしれないこんな経験をしたのだと見せてくれるだけなのです。

そしてラスト、エカはひとりバスに乗り、父親が収監されている刑務所に向かい、刑務官に何歳だ?と聞かれ、しっかりと14歳と答え、父親と面会するために面会室で正面をしっかりと見つめ父親を待つのです。(正面をしっかりと見つめというのは私の創作かもしれません)

もう一度見なくっちゃいけないですね。

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