愛なく殺伐たる風景にみえるけれど、あるいは特異なことでもないかも…
アンドレイ・ズビャギンツェフ監督、日本語的には記憶しづらい名前の監督ですが、「父、帰る」以来ずっと見ている監督です。
前作「裁かれるは善人のみ」では割とごちゃごちゃいろんな事が起きていましたが、この映画はシンプルそのもの、ある夫婦の「LOVELESS」な、まったく「愛のない」物語です。
ロシア語タイトル「Нелюбовь」を翻訳かけてみますと「嫌い」と出ます。
以下、いきなりネタバレしています。
監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ
12歳の子どものいる夫婦が離婚しようとしています。すでに夫婦どちらにもパートナーがいて、子供をどちらが引き取るかでもめています。親権を争っているのではないのです。どちらも自分の新しい生活には子供はじゃまだと考え、相手に押し付けようとしているのです。毎日のようにそんな夫婦喧嘩を聞かされていたのでしょう、ある日、子供が失踪してしまいます。夫婦は必死に探しますが見つかりません。
そういう話です。殺伐としています。ラストもまったく救いがありません。
最後まで子供は見つかりません。そしておよそ一年後、二人は離婚したのでしょう、どちらもパートナーと新しい生活を始めているのです。
およそ2時間、気持ちが晴れるシーンはひとつもありません(笑)。
この監督の特徴かと思いますが、いきなり最初からなにか嫌なことが起きそうな不穏な空気を漂わせながら始まります。まず音楽、前作はフィリップ・グラスでしたが、今回はオリジナルみたいです。たしかこの曲だったと思います。
“11 Cycles Of E” from the LOVELESS Soundtrack – YouTube
この曲をバックに、湖なのか川なのか凍りついたような冷たい感じの風景が何カットか続きます。
続いて、かなり引いた画で大きな建物をとらえています。どこなんだろうと思ってみていましたら、その画のまま正面のドアから子供が一人二人と出てきて、そのうちわーとたくさん出てきます。学校なんだとわかってきますが、なんて言うのでしょう、引いた画のせいもあるのでしょうが、なんとなく冷たい感じが漂っています。
カメラはそのうちのひとりを追い始めます。森を抜け、冒頭のシーンの場所なのか、水辺で紐(新体操のリボン?)を拾い、空に向かって大きく投げますとその紐が木に引っ掛かり風になびいています。
どこか物憂げなその少年アレクセイは、同年代の少年たちがサッカーに興じる広場を見向きもせず家に戻ります。家には母親ジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)がいますが、どことなくよそよそしさが漂っています。
自宅マンションを売ろうとしているようで、業者が顧客を連れて見に来ます。アレクセイの部屋にも入ってくるのですが、母親は挨拶をしないアレクセイをどついたりします。本当に「どつく」という感じなんです。
夜、夫ボリス(アレクセイ・ロズィン)が戻ってくるや、マンションが売れたかの会話から始まり、アレクセイをどちらが引き取るかの口論になります。夫は「母親が引き取るべきだ」と妻に押し付け、妻は「もうたくさん、自分の道を進みたい」と拒否します。
そして、おそらくこの映画の中で最も印象に残ることになるだろうシーンになります。予告編にもあるのですが、ジェーニャがトイレで用をたし、出ていく際にドアを締めますと、ドアの裏にはアレクセイが声を押し殺し顔をぐちゃぐちゃにして泣きながら立っているのです。
え?開けっ放しでやっていたのに出る時に閉めるの?とは思いましたが、そういうバカなことを言うようなシーンではなく(笑)、見終わった後、考えてみれば、この後アレクセイはまったく登場しない(ちょこっと出るけど)重要なシーンだったんです。
ということで、次の日かその次だったかアレクセイは失踪してしまいます。
話の展開はかなり遅めです。ここまで30分くらいでしょうか、そしてこの後ほぼ終わりまで捜索のシーンが続きます。考えてみれば1時間半くらい、いろいろあるにせよ基本的には探し続ける話を見続けたということになります。長いと感じさせないのですからすごいですよね。
二人にはそれぞれパートナーがいますがさほど重要なことではなく、二人の過去を暗示するような説明的な相手になっています。
ジェーニャがボリスと結婚したわけは、母親(家族)から逃げ出したかったからであり、直接のきっかけは子供ができたことです。口論の中で言うことですのでそれが本当の気持かどうかは分かりませんが、新しいパートナーも今のボリスとの生活から逃げるためとも見えます。
一方のボリスも同じことを繰り返しています。新しいパートナーは臨月を迎えようかというお腹をしており、わたしを捨てないでと泣きつかれています。
冷めた言い方をすれば、程度の差こそあれ、こうした人間関係に愛がないとも言い切れない気がしますが、それでも子供の立場からすれば死にたくなるのもわかります。映画はアレクセイがどうなったかを描いていませんが、あるいは自殺したのかも知れないと、ラストに最初の水辺の木に絡みついた紐を見せています。
で、話は戻って捜索のシーンなんですが、捜索するのは警察ではなくボランティアの集団なんです。警察に届けはするのですが、そのうち戻ってくるだろう、手がいないなどとまともに応じもせず、探したければボランティアに頼めといった具合です。
何を描こうとしたのかよくわからないのですが、この集団がすごいんです。とにかくリーダーの下よく統率が取れており、あれ?警察だったかなと思ったくらいで、それなのに誰にひとり小言を言ったり、間違いを犯したり、勝手なことをすることなく、ただ黙々と任務(?)をこなして、たとえば探し人の張り紙をする場面でも皆自主的に張り紙を持っていくのです。
逆に言えば、ちょっと異様で、こうした組織が自警団のようなっていったら怖いよなあなどと見ていました。映画的には余計なことですが。
その他、意図的に目立たたせているなあと感じたことが2つあり、ひとつは、特にジェーニャですが、SNSでしょう、喧嘩をしていても何をしていてもスマートフォンを離さない印象で作られており、そしてもうひとつは、テレビの音声で、ウクライナ紛争や何か宗教的な終末観を煽る集団の話をバックに流していたことです。
おそらく社会情勢の方はヨーロッパ、特にロシアであれば、そうしたものが流れていることで何かしら感じることがあることから使われているのでしょう。SNSの方は現代病のひとつですし、ジェーニャが特別というわけではなく、現代人の身勝手さの表現でしょう。
捜索の過程で、あるいはアレクセイかという、ひとりは病院に保護された少年、そしてもうひとりは死体として発見された少年と対面しますが、そのどちらもアレクセイではなく、捜索は打ち切られてしまったようです。
この死体との対面でちょっと気になったのが、死体を見たパニックからなのか、ジェーニャがボリスに「あの子は誰にも渡さない」と叫ぶ場面があります。予告編にもありますが、どういう意図であれを入れたんでしょう?
そういえば、アレクセイがいなくなってからのジェーニャはかなりショックを受けたように描かれ、ボリスの方は見た目あまり変わらず冷静さを保っているように描かれていました。
アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の男女観が出ているのかも知れません。
その意味では、ラストシーンも象徴的です。
ともにパートナーと暮らしているのですが、ボリスの方は、妻とその母親と生まれた赤ん坊と暮らしているようで、妻と母親がキッチンで三世帯が住むには狭いとか何とか、そんな話をしている中、別の部屋でボリスが赤ん坊を邪魔くさいと思ったのか無造作にベビーサークルへ放り込むシーンで終わります。
一方のジェーニャは、シーツから下半身だけが見えているシーンがここだったと思いますが、パートナーがベッドになぐさめるように寄り添いますと、おもむろに立ち(その後ジャージを着たのかな?)上がり、テラスのランニングマシンでランニングし始めるのです。
何だか本当に殺伐としています。