批評的であることはいいけれど、心優しき映画ではないですね
この映画をひとことで言いますと、見ながら「ハイ、ハイ」「ハイ、ハイ」とついつい口をついて出てしまう映画です(笑)。
前作「フレンチアルプスで起きたこと」を見ての、私が感じるこの監督の立ち位置と、この映画の予告編を見ての予想で、見なくてもいいんじゃないと思っていたのですが、気に入りそうな映画ばかり見ていても視野が狭くなるだけだと思い直し見てみました。
と、それもあるのですが、この映画、昨年2017年のカンヌでパルムドールを受賞していまして、コンペティションの審査委員長がアルモドバルなんですよね。
監督:リューベン・オストルンド
コンペティションの審査で審査委員長の意向がどの程度受賞作品に反映されるのかはよく分かりませんが、それでもまあ、審査委員長がだめと思う映画が選ばれることはないでしょう。
その点から見れば、おそらくアルモドバルには絶対撮れない(と私が思う)突き放した冷たさに惹かれるところはあるかも知れませんし、前作「フレンチアルプスで起きたこと」も2014年のカンヌ「ある視点」部門で審査員賞を受賞した映画ですので、ある種(映画祭の)政治的な力が働くということもあるのかも知れません。
まあ、映画祭の賞が必ずしも映画の出来、つまりは将来にわたって語られていく映画になるかどうかをあらわしているわけではありませんので、こういう自分のことを棚に上げた(笑)風刺的な映画もたまにはいいのかも知れません。
と、むちゃくちゃ嫌味を書いていますが、ただ、この映画を面倒くさい映画だなあと思う人は多いように思います。
結局、おそらく人間誰もが持っているであろう不誠実さや不寛容さや差別意識をことさら取り上げて、それを高みの位置から描く、そのことに「ハイ、ハイ、もうわかりましたって」と言いたくなるということです。
物語としては、現代美術館 X-Royal Museum のキュレーター、クリスティアン(クレス・バング)が、世の中の不誠実さや理不尽さが、実は自分自身の不寛容で不誠実で差別意識の反映だと気づかずどんどん深みにはまって、ついには解雇されるという話です。
大きくは3つの話が進行しますが、時間軸以外で関連するわけではありませんのでひとつずつ書きますと、まず冒頭、女性記者からインタビューを受けるシーンから始まります。
初っ端からかなりあざといつくりになっています。なぜそうなのかはわからない、おそらくは見ているものをイラつかせる意図だとは思いますが、インタビューシーン、女性記者に意味もなく持っている書類を落とさせたり、記者にわざわざ美術館のウェブサイトに公開されていることを質問させ、それをクリスティンが知らない(忘れている?)ところをみせたり、それだけでインタビューは終わりましたと、え?何のためのインタビュー?と首をひねらせたり、またインタビューは美術館内でやっているのですが、わざと背後でごそごそさせたり、見えない周りの音を入れたり、何とも奇妙なオープニングです。
この、画の中にはない音が突然する、たとえば突然ガシャーン!という音がするのですが、何が起きているのかわからないという見せ方の手法は頻繁に使われます。画の方でも、音の手法ほと多くはありませんが、わざと見せないとか、なにか見えるけれどもはっきり見せないなどもかなり使っています。
そういうのって、見ていてイライラするに決まっているじゃないですか。それをあえて全編に使っている映画です。
で、その女性記者との話がどうなるかといいますと、映画の中ほどのパーティーのシーンで再び出会い、クリスティアン自身が声を出して「あの女とは寝ないぞ」と、映画的には「寝るぞ」と言ってるのですが、まさしくその通りになり、女性の部屋へ行きますと、なぜかペットのゴリラがいたり、二人のセックスシーンも実に奇妙なもので、いきなりXXXXXをつけてXXするだけのセックス、終わって、そのXXXXXをどちらが捨てるかでもめたり、わけのわからない人間関係です。
ところで、クリスティアンは女性がXXXXXをどうすると思って渡さなかったんでしょうね?
この女性との関係はもうワンシーン、ラスト近く、美術館で、その女性がクリスティアンを問い詰めるシーンがあるのですが、女性が何を言わんとしているのかわからない、あなたは誰とでも寝る人なの? とか、私たちの関係は何なの?と迫っているのかなんなのか、それに対して優柔不断な態度を取るクリスティアンを見せて、イラつかせていました。というか、イラついていました(笑)。
この女性との話はそれだけだったと思います。
次にタイトルにもなっている「ザ・スクエア」というこの美術館の新しい展示企画の話です。
この「ザ・スクエアは、信頼と思いやりの聖域です。この中では誰もが平等の権利と義務を持ちます。The Square is a sanctuary of trust and caring. Within it we all share equal rights and obligations.」というコンセプトの展示で、それをいかに宣伝して客を呼ぶかというプロジェクトが進行します。
広告代理店を含めた美術館の企画会議のシーン、例によって、画には現れない赤ん坊の泣き声がしています。当然プレゼンする代理店の者は気になって仕方ありません。そのうち美術館のスタッフのひとりが赤ん坊を抱いて席につきます。そのスタッフは赤ん坊の泣き声が会議の場でどうなのかという視点さえない顔つきをしています。
やっと日本でも職場に子どもを連れて行くことができる会社もできたりと、そもそもそうしたことを議論することさえありえなかった時代からすれば隔世の感がするのですが、さすがに会議の席に赤ん坊は難しいのではと思いますが、スウェーデンではこういうシチュエーションが普通のことなんでしょうかね。そのあたりよく分かりませんが、仮にそうだとしても、こういうシーンをあざとく入れているということは、少なくとも、会議の場に赤ん坊の泣き声は困ると思っている人がいるということでしょう。
で、その後、その広告代理店が持ってきたプランは、「ザ・スクエア」のプロモーション映像を作りネットに上げるというもので、その映像は、ホームレスと思しき金髪の少女(子ども)がザ・スクエアに入ってきますと何かが起きるという内容なのですが、まだ最後は決めていないというものです。
決定はクリスティアンに委ねられますが、あいにく、クリスティアンは他のこと(次に書く3つ目の物語)で頭の中がいっぱいで、ふたつ返事で任せてしまいます。
後半、クリスティアンは、そのプロモーション映像が Youtube で炎上したと知らされます。ただ、クリスティアンはそれがどんな映像であるか、Youtube に流したことさえ知りません。その理由はやはり3つ目の物語でそれどころではなかったという設定なんですが、これかなり不自然で、そんな人間ならキュレーターなんかになれていませんね。
その映像の結末、少女がスクエアの中に入って起きたことが何かといいますと、突然爆発が起き少女が吹っ飛んでしまうというものです。そこに「信頼と思いやりの~」のコピーがかぶるわけです。
そりゃ、炎上しますわね。
ええ?何でそれが炎上することがわからないの!? ということが日本でもよく起きますが、まあ多くの場合ほぼ炎上商法でしょう。
このホームレスの少女の位置づけですが、わざわざ金髪にするということを言っていましたし、クリスティアンが記者に追求されるシーンで、黒髪にすることもできたはずだと言われていたことを考えれば、中東からの移民のストリートチルドレンという設定であり、それをあえてスウェーデン人に多い金髪にするという二重の意味での差別意識を反映させているのだと思います。
ラスト近く、キュレーターを辞任することになり記者会見するクリスティアン、責任をとって辞めると言いつつ、どんな映像かも Youtube に上げることも知らなかったと言い訳を言っていました。余計なことですが安倍政権みたいなもんですね。
考えてみれば、タイトルにしても、映画の売られ方(宣伝)をみても、ザ・スクエアが映画の軸となっているのかと思っていましたが、そうではなく、最初から最後まで一貫して流れているのは次の3つ目の物語で、クリスティアンはそのことにずっと囚われて、だからこそ、記者の女性のことやザ・スクエアのことも上の空のような展開となっていました。
で、3つ目の物語。
クリスティアンは、街なかで悲鳴を上げて男から逃げる女性を助けようと(したわけではなく何となく)かかずり合い、その女性に財布と携帯をすられます。
美術館の部下に話しますと、部下は、GPSを使ってそれがある場所にあることを突き止めます。これ映像的には分かりませんでしたが、貧しい人々が暮らす地域との設定だったようで、そのアパートのどこかということはわかってもどの部屋とは分かりませんので、全戸に「返さなければ〇〇するぞ(なんだった忘れました)」と書いた脅迫じみたビラを配りにいきます。
このシーンにも、車の中からのカメラだけで、外から誰ともわからない黒い影がちょっかいを出すシーンを入れ、つまり貧しい地域だからいわゆる乱暴なワルがいるといったことを、映画としては何も説明するわけではないのですが、見るものに想起させるという本当にあざとい手法を使っています。その意味では、そのアパートの詳細など見せず、逆にそれらしく見せないというのも同じような考えからなのでしょう。
意外にも簡単に携帯も財布も何もなくならずに戻ってきます。
しかし、脅迫めいたビラの影響は大きく、ある日、少年がやってきて「お前のビラで自分が両親から泥棒だと疑われている。謝れ!」と執拗に迫られます。
また、ビラへの仕返しとして、差し出し主は分かりませんが、「・・・(忘れた)カオスに陥るだろう」との脅迫めいた手紙を受け取ります。
後半、ついにクリスティアンの住まいまで少年がやってきます。少年は「謝れ!謝れ!」と階段を追ってきます。まわりに知られたくないクリスティアンは、静かにと少年をなだめますが、少年は執拗に追いかけます。ついにキレたクリスティアンは少年を突き飛ばし、家に入っていまいます。
アパート中に少年の「助けて、助けて」の声が響きます。階段に出て見回しても少年の姿は見当たりません。
まあ普通は階段を降りて探すのでしょうが、見るものをイライラさせることが目的のこの監督はそんなことはさせません(笑)。助けて~、助けて~と少年の声が残ったままこのシーンは終わります。
そして、キュレーターを辞任したクリスティアンは、少年に謝罪しようとアパートを訪ねます。しかし、少年は見つかりません。このシーンも、もうひとつ中途半端で、そもそもどの部屋かわからないのに、当てずっぽうでひと部屋を訪ね、その住人が知らない、引っ越したのではないかというのを聞き、それで諦めて帰ってしまいます。本気で探す気がないことを見せているのか何なのかよくわかりません。
このラストシーンに、離婚した妻との間の二人の子供を絡ませて、おそらくクリスティアンとしては子供にみせたくないことであり、しかし子供はすでに薄々感じていることもわかっており、そうした罪悪感のやりきれなさや後悔を感じさせて映画は終わっています。
ということで、長々と書いてしまいましたが、結局のところ、この記事の最初にも書きましたように、この映画で取り上げられている人間の不誠実さや不寛容さといった社会的には否定されるべきものは誰もが持っているものであり、仮にそれを批判的に取り上げるにしても、自分自身も同じであり、それが人の弱みであり、時に思わずやってしまった時、誰もが人に知られたくないと思うものだと、たとえば、ちょっと急いでいれば他人への思いやりなど割と簡単に飛んでしまうものだということをわかっていると感じさせる映画でなければ、つまり批評の視点でしか撮られていないのであれば、「ハイ、ハイ、もうわかりましたって!」と言うしかないということです。
ということですかね…。