顔を捨てた男

この映画をルッキズムで語るのはテーマの取り違え…

映画後半にエドワードにとってかわるオズワルドを演じているアダム・ピアソンさんは特殊メイクをしているわけではありません。神経線維腫症を患っていますがキャリアあるイギリスの俳優さんです。

顔を捨てた男 / 監督:アーロン・シンバーグ

アダム・ピアソンさんとアーロン・シンバーグ監督…

神経線維腫症(しんけいせんいしゅしょう)、見た目が多くの人と違うことから差別につながることもあり得ますのでどんな疾患なのか正確に理解したほうがいいですね。

遺伝性の疾患で感染することはありません。特定の遺伝子の変異によって神経組織が増殖して皮膚の下などに腫瘍が厚くたまるためにその部分が変形するようです。

アダム・ピアソンさんは2013年のスカーレット・ヨハンソン主演「アンダー・ザ・スキン 種の捕食」という映画でデビューし、2019年のアーロン・シンバーグ監督の「Chained for Life」では主演(級?…)での出演です。他にも BBC の司会やレポーターとして活躍されているようです。

アーロン・シンバーグ監督はこの「顔を捨てた男」についてのインタビューで、アダム・ピアソンさんとの出会いが自分自身に強い影響を与えていると語っています。

と言いますのは、アーロン・シンバーグ監督は口唇口蓋裂(こうしんこうがいれつ)という生まれつき唇や上あごに裂け目がある先天性疾患を持っており、これまでに何度も手術を受けているそうです。

In the case of this film, I worked with Adam Pearson, who I’d worked with before. He’s someone who doesn’t seem to let his disfigurement define him. Meeting him and seeing that threw me into a kind of identity crisis.
Le Cinéma Club

この映画では以前一緒に仕事をしたことがあるアダム・ピアソンさんに出演してもらっています。彼は外見上の障害で自分自身を規定しているように見ませんでした。そんな彼を見て私はアイデンティティ・クライシスに陥りました。

こういうことでしょうか。シンバーグ監督は子どもの頃から自分の見た目が多くの人と違うことから他人が自分を見る目を内面化して自分自身を奇異なものと思い込んできたけれどもアダム・ピアソンさんはまったく違っていた、なぜそんな自分自身でいられるのかと大変混乱したということかと思います。

また、この映画への思いについては、

I’m just writing about myself. I’m writing about my experience and I’m trying to make sense of it. I never felt that any movie that dealt with the subject spoke to me, or if it spoke to me, it only confirmed what I feared that everybody was thinking about me was true. That this is the way the world views disfigured people and this is the way the world views me.

Le Cinéma Club

自分自身の経験を書いているだけです。そしてそれによって自分自身を理解しようとしています。こうしたテーマの映画で私の腑に落ちるものはありませんでした。やはり私のことをそう思って見ているのかとの恐れを感じただけです。世間は傷ついた人をこう見ているのだ、人々は私をこういう目で見ているのだと。

この「顔を捨てた男」はこうした思いから生まれた映画ということです。なかなか描きにくいテーマなのに、それをブラック・コメディにできるというのも当事者だからだと思います。

率直なところ、いやーな感じのする映画です。おそらくそれは、アーロン・シンバーグ監督が日々誰彼からともなく投げつけられてきた視線はあなたにもあるでしょと突きつけてくるからだと思います。

顔を捨てたエドワード、別人ガイとなるが…

エドワード(セバスチャン・スタン)は神経線維腫症のため顔が変形しています。そのため人目を避けるように生きています。

アパートメントの隣の部屋にイングリッド(レナーテ・レインスヴェ)が引っ越してきます。イングリッドはとてもフレンドリーで、出会いが不意であったために一瞬驚きはしますが、その後はエドワードに親しく話しかけてきます。

イングリッドは劇作家を目指していると言います。エドワードは俳優だと言い、企業用のコンプライアンス教育ビデオを見せたりしています。エドワードがいつか君の芝居を見たいといえば、イングリッドは出たいでしょと返しています。

エドワードは実験的な遺伝子治療を受けます。そして変形していた皮膚がめくれて再生し新しい顔を手にします。

何ヶ月か何年か経った後、元のアパートメントを去り別人のようになったエドワードはガイと名乗り、不動産会社の営業マンとして成功し、高級マンション暮らしとなっています。

ある日、エドワードはオフ・ブロードウェイ(オフ・オフかも?…)で「エドワード」という新作劇の告知を目にし、劇場内に入ってみますとそれはイングリッドのプロデュースによるエドワードとの出会いを描いたものなのです。エドワードは引き込まれるように舞台に上がり、イングリッドもまたその自然さに引き込まれて主役として抜擢することにします。もちろんイングリッドはガイと名乗るその男がエドワードであると気付きもしません。その後、稽古を重ねるとともにふたりはプライベートでも付き合うようになります。

願いのかなったガイを名乗るエドワード、順調にいくかと思った稽古中のある日、神経線維腫症を患っているオズワルド(アダム・ピアソン)が「エドワード」の内容に興味があるからと劇場に入ってきます。

オズワルドの外見は元のエドワードと同じですが、その振る舞いがまったく違います。まるで人目を気にする様子もなく自信に満ち溢れています。オズワルドはイングリッドをはじめ皆の注目を浴びるようになっていきます。そしてエドワードの役まで奪ってしまいます。

このあたりのエドワードの心情は引用したインタビューのシンバーグ監督の言葉そのものだと思います。

エドワード、アイデンティティ・クライシスとなる…

エドワードのアイデンティティ・クライシスの始まりです。

オズワルドの意見を取り入れて書き換えられた「エドワード」は大成功を収め、マイケル・シャノン(本人役でカメオ出演)主演で映画化の話まで出てきます。

それにつれてエドワードは精神的に追い詰められ、オズワルドをストーカーし、すでに付き合うようになっているイングリッドのアパートメントに押しかけて追い返され、日常生活にも異常をきたして不動産会社も解雇され、ついに上演中の舞台に乱入して暴れ、それがためにセットの下敷きになり、骨折してリハビリが必要な身体になります。そしてある日、インストラクターの理学療法士がオズワルドを侮辱する言葉を吐いたことからその男を刺し、刑務所に入ります。

そしてかなりの年月が経ったある日、白髪の混じったエドワードはレストランでオズワルドとイングリッドと会っています。ふたりは大成功を収めたようです。カナダのコミューンへ移住すると言っています。エドワードはカルトかと言い、オズワルドはそうかもしれないと答えています。サーバーが注文を取りに来ます。迷いなくすらすらと注文するオズワルドとイングリッド、決められないエドワードです。

変わっていないなあと言うオズワルド、自己憐憫のような笑顔のエドワードです。

ルッキズムで語ってはいけない…

この映画をルッキズム批判という言葉で表現してしまいますとアーロン・シンバーグ監督の思いとはちょっとズレてしまうかもしれません。

この映画を見る者の多くは健常者ですので、この映画を見れば自らが持っている視線というものを意識させられます。仮に目の前にアダム・ピアソンさんが現れれば、それが突然であればこの映画のイングリッドと同じように驚くでしょうし、知って会えばじっと見てはいけないと意識させられます。これはルッキズムとは別物です。

この映画は外見で人を判断することがどうこうと描いているわけではなく、外見が多くの人と違っている人物が他人の自分を見る視線を内面化してしまい、それから逃れることが出来ずに苦悩する話です。

その場合、他人というのは健常者なわけですから、結果として私などもその苦悩を与えているその一人だと思い知らされるという構図になっている映画です。

その意味では引用したアーロン・シンバーグ監督のインタビューそのものの映画ということになります。

逆説的に言えば、健常者は「エレファントマン」には感動しますが、こうした映画には、私も含めてなんとなく後ろめたさを感じてしまうということです。