アフター・ヤン

静謐というべきか、静止画像のような映画は蝶になれるのか

前作「コロンバス」に続くコゴナダ監督の長編第二作です。コゴナダ監督は韓国系アメリカ人で、その名は野田高梧という脚本家に因んだものとのことです。野田高梧(のだこうご)さんは、小津安二郎監督の「晩春」以降の脚本のすべてで小津監督と共作となっている方です。「KOGO NODA」からということでしょう。

アフター・ヤン / 監督:コゴナダ

終わりは新しい始まり

物語は、見た目まったく人間と変わらないテクノサピエンス(アンドロイド)が登場する話ですので SF ということにはなりますが、描かれるのはそのテクノサピエンスが動かなくなった(=死)後の、残された人間たちの喪失感とテクノサピエンスの記憶(=遺品)の物語ですので、この映画においては、サイエンス・フィクションであるか現実的フィクションであるかはほとんど意味がないということになります。

実際、映像も一般的に未来をイメージさせるハイテクノロジーな映像世界ではなく、緑あふれる自然や木を使った室内装飾の家といった映像で構成されており、未来世界を自然回帰に託すといった価値観を想起させます。

おそらくコゴナダ監督には、成長、消費の循環によって幸福を目指す西洋思想の行き詰まりへのアンチテーゼとして老荘思想などの東洋思想がイメージされているのではないかと思います。

映画の中に、老子の言葉として「What the caterpillar calls the end, the rest of the world calls the butterfly.」が引用されています。直訳ですと「毛虫が終わりと呼ぶものを残りの世界は蝶と呼ぶ」ということですが、「毛虫にとっては終わりだが、蝶にとっては始まりだ」という意味合いだと思います。ただ、この言葉は老子の言葉ではなく荘子の言葉(の変形)じゃないかという話もあります。確かに「胡蝶の夢」からのものっぽいです。

それはともかく、テクノサピエンスであるヤン(ジャスティン・H・ミン)が老子の言葉として引用したことに対して、家族であるカイラ(ジョディ・ターナー=スミス)が、終わりは新しい始まりということ?と聞き返していました。

我々は物事の変化を考えるときにX軸Y軸の二次元空間で考えることが多く、その場合、X軸の経過とともにY軸の数値も増大していく、いわゆる右肩上がりをイメージすることが多いと思います。それに対して、物事には常に終わりがあり、それはまた始まりであるという考え方が対置されている映画と考えることもできます。

アジア系としてのアイデンティティ

アメリカにおけるマイノリティのおかれている状況というのはかなりの頻度でニュースになります。当然ながら、我々が目や耳にする情報はアメリカからのものに偏っていることの現れであり、世界中あらゆるところに差別偏見ははびこっているわけですが、韓国系アメリカ人であるコゴナダ監督にしてみれば肌身に感じることがあるんだろうと思います。

ジェイク(コリン・ファレル)は白人、カイラは黒人、ふたりの養女であるミカは中国系、そしてヤンは中国系にプログラミングされたテクノサピエンスです。かなり観念的ではありますが、出自においては完全に断絶した(とも言えないが、とにかくここでは…)関係にあります。

ミカやヤンを中国系にしているのは現在のアメリカにおける中国という存在の大きさの現れであって、おそらく監督自身を含んだもう少し広い意味でのアジア系アメリカ人、さらに広い意味で言えば社会におけるマイノリティ、さらにさらに人間以外の存在に広げれば、この映画のヤンのようなテクノサピエンス(AI)のアイデンティティのありようが基本的なテーマなんだろうと思います。白人であるジェイクにクローンへの差別意識を反映させているのも示唆的です。

ただ、こうした問題の設定のしかたはこれまで多くの映画でなされてきたことであり、この映画が目新しいということではありません。この映画にはそうした多くの問題が提示されてはいますが、それらがただ観念的に並べられている以上のものは感じられず、物足りなさが感じられるのはそのあたりにあるのだと思います。

いまだ蝶になれない現実

この映画は、ヤンが死亡し、それを受け入れられない家族がなんとか蘇生させようとしていると考えることもできます。そしてそれが叶わぬものとなれば、ヤンの残した遺品、ヤンはテクノサピエンスですのでその記憶はメモリに保存されており、そのメモリを見ることで亡き人を偲ぼうとしているようにも見えます。

ジェイクが見るヤンの遺品には、テクノサピエンスであるヤンが、自分に埋め込まれた記憶にある二世代前の女性のクローンであるエイダに恋(とは言えないかも)した記録が残されています(と見たけれどもそうかどうかはわからない)。

この映画が語っているのはそこまでです。ジェイク、カイラ、ミカの家族はヤンの終わりの瞬間にとどまったまま動こうとはしません。いまだ蝶になることはできず、あるいはさなぎの抜け殻のままにも見えます。

確かに各カット、美しくはありますが、スチル写真のようなフィックスの映像の連続には動きは感じられず、そこに新しい始まりを感じることはかなり難しく感じます。