事実をもとにしているというのならもう少し真剣に向き合ってください…
このところネット上で河合優実さんの名前を目にすることが多くなっています。私の場合、ふっと目がいくのは、山中瑶子監督が今年のカンヌ国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞した「ナミビアの砂漠」の主演俳優という記事です。山中瑤子監督のデビュー作「あみこ」のレビューには「こういう才能が継続的に映画が撮れるといいのですが…」と書き残していますのでどういう映画かとても気になります。
この「あんのこと」の河合優実さんもかなり露出が多いです。予告編もかなり見せられています。
- 不幸をネタとして消費しているだけではないのか…
- なぜ説明的な段取り映画といえるのか…
- なぜ? を書き出してみればそれは歴然…
- 極め付きは多々羅事件はどうなった…
- 子どもを置いていったのはシェルター避難者?…
- 事実をもてあそばないで…
不幸をネタとして消費しているだけではないのか…
で、この「あんのこと」ですが、私はこうした、言ってみれば不幸物語のような題材を批評性なく描いた、単に物語のネタとして消費しているだけの映画はダメというのが基本スタンスですので、河合優実さんはともかくとしても映画全体としての評価は低いです。
さらにこの映画の場合、刑事である多々羅の犯罪に対して批評性以前に判断を放棄しているわけですし、母親の DV やそれから逃れるシェルター、それに生活保護などについてもかなり浅い描き方です。肝心の薬物に関しては、私も現実を知っているわけではありませんのでなんとも言えませんが、それでもかなり現実感は薄く感じられます。
そうした映画のテーマ的なことがある上に、そもそもの映画のつくり自体がうまくありません。シーンの展開が雑でリズムがありませんし、最初から最後まで物語の説明に終止して、これを伝えようとするうねりのような動きが感じられません。こんな不幸な人がいましたと言っているだけでは映画になりませんし、何も始まりません。
なぜ説明的な段取り映画といえるのか…
杏(河合優実)が無人の繁華街を歩いているシーンから始まります。これはラストシーンからのワンカットなんですが、ただ、見ている段にはそのまま連続性のあるカットと考えても違和感のないシーンですので何をねらっているのかあまり意味のない手法です。
続いて、杏がウリをやっているラブホテルと思われるシーンになり、そこで男が覚醒剤を打ち、杏が先に金を出せと言って男の財布から金を抜き取ったことから揉み合いになります。杏の雰囲気からしますと杏もすでに覚醒剤を打っているという設定だと思います。
こういうシーンのつくりが段取り映画なんです。映画のつくり手が考えているであろうこのシーンの意図は、杏はウリをやっています、杏は覚醒剤を常用していますと説明することなんでしょう。実際、その後、杏がウリの行為をどう受け止めているのかを描くシーンもありませんし、覚醒剤を断つにしても、たとえば禁断症状はないのかという疑問に答えてくれるシーンもありません。俳優にかなり近い位置からのハンディでその激しさを出そうとしていますが、これ以降、杏の内面的なものを描こうとするシーンがない以上、説明以上のものは感じられません。
こうした説明的なシーン構成が最後まで続きます。
案の定、次は杏が多々羅(佐藤二郎)と出会うシーンです。杏が覚醒剤所持(かな…、よくわからない…)で逮捕(任意かも…)され、多々羅から取り調べを受けます。多々羅の意味不明なコント芝居は演出なのか、佐藤二郎さんの提案なのか分かりませんがかなり寒いです。記録係として座っている警官にもそれをやらせる演出もまったく理解できません。その後、杏が覚醒剤をパンツの中から出しても逮捕せずに釈放(解放?…)するのであれば、先に退出させておくべきでしょう。
とにかく、なぜ素直に覚醒剤を出したのかも理解に苦しみますし、なぜ持っているにもかかわらず逮捕されないのかもまったくわからないままに、やはり映画は段取りを進めます。
次は多々羅が杏を助ける段取りです。多々羅はサルベージ赤羽という薬物依存者のための自助グループを運営しており、杏をその自助グループに参加させ、また、介護施設への就職をサポートします。そして、杏はこんなに簡単でいいのかと心配になるほど簡単に(現実ではなく映画の話です…)どん底状態から脱していきます。
このペースで段取りシーンを書いていきますといつ終わるかわからなくなりそうですので(笑)、簡潔にいこうと思いますが、映画が説明的な段取りで進んでいるということはいったいどういうことかは以上のような意味合いです。
なぜ? を書き出してみればそれは歴然…
いずれにしても、なぜ? なぜ? と映画を見ての疑問を並べていけば、この映画が単にこの題材をネタとして消費しているだけということがよくわかります。
すでに書いたことと重複するものもありますが、こうした疑問にどう答えるかを考えた形跡が感じられないということです。答が必要と言っているのではありません。答などないものもあるでしょうし、答えてくれなくても想像のつくものもあります。問題はそこではなく、こうした問題に対してどう向き合っているかということが映画から感じられないということです。
- なぜ杏は逮捕されずに釈放(解放?…)されるの?
- なぜ杏には薬物の禁断症状がないの?
- なぜ杏は多々羅を信用することにしたの?
- なぜ杏は簡単にウリや薬物と縁が切れたの?
どうやって客をとっていたの?
どうやって覚醒剤を手に入れていたの? - なぜ母親は杏に暴力を振るうの?
なぜ母親は杏のことをママと呼ぶの?
母親が杏をママと呼ぶわけはおおよそ想像がつきますが、この映画の母親はそれがしっくりくる母親ではありません。母親からの DV があることも、ただ母親を暴力的に演出しているに過ぎず、そこに本質的な何があるのかに迫ろうとする意思も感じられないということです。
最初から30分くらいのシーンだけでもこれだけの疑問が生じます。それにあざといシーンも多いです。
- 役所に生活保護を申請し受理されないことに多々羅が抗議するシーン
- 最初に働き始めた介護施設の給与に対して多々羅が抗議するシーン
- 母親が酔っ払って男を連れ込むシーン
あざとさの多くは佐藤二郎さんの過剰な演技ですね(ゴメン…)。
極め付きは多々羅事件はどうなった…
多々羅が自助グループに参加している女性への強制わいせつ(強制性交罪?…)の疑いで逮捕されます。
これは自助グループの誰かが週刊誌に告発したものと思われ、これもそれらしき人物と思わせるような人物のワンカットを入れることで済ましていました。告発した経緯や理由を入れないのであればそんなワンカットに意味があるとは思えませんが、とにかくその週刊誌の記者桐野(稲垣吾郎)が被害女性からの録音や LINE のトーク記録を入手して記事にしたことから多々羅の犯罪が明らかになり逮捕されたようです。
これ以降、この事件については何も触れられません。え?! どういうこと? 前半の親切おじさんが実は裏では犯罪を犯していたということでしょ。放っておいていいんですかね。
この展開はどう考えてもとにかくとは言えませんが、とにかく(笑)、映画はすっかり多々羅のことはほっぽりだしてコロナ禍という社会心理的な抑圧で杏を追い込もうとします。
杏に人的交流がなくなり孤立していくということだと思いますが、映画はそもそも杏に多々羅と桐野以外に交流があるようには描いていないわけですから、違和感の強いコロナ禍なんてものを持ち出さずに多々羅の裏切りが杏を苦しめることにすればいいんじゃないかと思いますけどね。それに、コロナ禍に撮られた映画がマスクの処理に苦労していたのとは打って変わって、マスク対応のいい加減なことといったらありません。
子どもを置いていったのはシェルター避難者?…
記憶が曖昧ですが、杏に新しい介護施設での就職が決まった日に多々羅と桐野に付き添われ DV シェルター(と思われるが状況的にはありえないのではないか…)に入居しています。多々羅はともかく桐野が同行することはあり得ないと思いますし、シェルターから働きに出るということも、長期間の滞在も無理だと思います。
で、ある日、コロナ禍で孤立している設定と思われる杏の部屋の玄関をドンドンドンと叩く者が現れます。シェルターから一般アパートに移ったシーンはなかったと思いますので、あのシーンはシェルターのシーンと思われます。
開けちゃいけないですし、あれがシェルターだとしてドンドンドンの女性もシェルター避難者なんですかね? 台詞が聞き取れませんでしたのでなんと言って子どもを置いていったのか分かりませんが、むちゃくちゃ違和感があります。それにこういう重要な人物をこんな後半に出しちゃいけません。シェルターというものにきちんと向き合って描いていないからこういう説明的な後出し人物を登場させなくちゃいけなくなるのです。
その女性は3、4歳の子どもを預かってくれと言ってどこかへ行ってしまいます。杏は戸惑いながらもその子の面倒を一生懸命みようとします。母親がシェルターにやってきて杏を連れ戻してしまいます。このあたりもいい加減さの極みです。
で、母親は杏に暴力を振るいウリで稼げと強要します。杏は従います。覚醒剤を打っているカットがありました(もっと後だったか…)。お金を手に握って帰ってくるシーンがありました。もう言わずもがなですが、あまりにも説明的でやりきれません。
子どもがいません。母親はあまり泣くものだからどこかに電話をしたら児相がやってきて連れて行ったと言います。
絶望した杏は飛び降りて自殺します。
事実をもてあそばないで…
映画冒頭、これは事実をもとにしているといったスーパーが出ていました。
もしそうなら、もう少し真剣に向き合ってください。