稲垣吾郎と二階堂ふみ、幻想的にはならず
バルボラという言葉の響きにどことなく馴染みを感じるものがあり、あるいは手塚治さんの「ばるぼら」を読んだことがあるのかとも思いましたが違うようです。
「バルバラ」でした(笑)。チェコには女性名があるそうです。
で、映画ですが、んー、と唸ってしまうような出来です。
かなり無茶苦茶書いていますのでご注意ください。
古臭さが古臭さのまま放り出されている
原作の漫画「ばるぼら」は1973年から1974年にかけて『ビッグコミック』に連載されています。漫画についての記事を2、3読みましたが、映画とはずいぶん違うようです。
その違いの原因はおそらくこの映画のつくり手の思い切りのなさだとは思いますが、それは現在の道徳的規範で自らの縛っているかのようです。
主人公の美倉洋介は原作では異常性欲(性愛?)の持ち主となっていますが、映画の美倉にはそうした描写はありません。マネキンや犬と性交しようとするシーンはありますが妄想の中の出来事のように描かれています。仮に異常性欲があるにしてもそれに悩まされているといったシーンはありません。日常生活も含めいたって普通です。ちょっと気取った常識人にしか見えません。
退廃、狂気、エロスといった言葉は全く当てはまりません。
ばるぼらはミューズとされていますが、ばるぼらが美倉の創作意欲を駆り立てるといったシーンはありません。確かにばるぼらがいなくなり書けなくはなりますが、ただそれでさえ、書けなくなった美倉を見せているだけで美倉自身が堕ちていくわけではありません。作家として人格崩壊していくわけではありません。
ということですので、結果として原作の上っ面だけをなぞり、その中身が空っぽのような映画となっています。とにかく現実感(存在感のほうがいいかも)のなさだけが際立ち陳腐さだけが目立ちます。
当然ながら原作が50年前の作品であればその古臭さは避けられないでしょう。問題はその古臭さに対してどう相対するかです。
徹底してその古臭さを極めにいくこともできますし、現代的視点で読み替えることもできます。しかしこの映画はなにも考えられていません。何かを描くときの視点というものがありません。原作をなぞっているだけです。
とにかく映画が何をしたいのかわかりません。
ネタバレあらすじ
基本は美倉とばるぼらの二人の関係だけで、そのまわりで起きることがドラマとして二人に絡んでくるわけではありません。エピソード的にこんなことがありました的に描かれるだけです。
人々が行き交う地下通路にウィスキーの瓶をにぎったまま酔っ払って寝込む少女がいます。「都会が何千万という人間をのみ込んで消化し、垂れ流した排泄物のような女、それが、ばるぼら」とナレーションが入ります。
流行作家の美倉洋介(稲垣吾郎)が通りかかり住まいに連れて帰ります。ばるぼら(二階堂ふみ)は勝手気まま、ベッドには倒れ込み、勝手に酒をラッパ飲みし、我が物顔に振る舞います。
ばるぼらはそのまま美倉の住まいに居着きます。
美倉が街を歩いています。ショーウィンドウでマネキンのコーディネイトをする女に目がとまり、引き込まれるように店に入ります。女が誘うような目をしてフィッティングルームへ入っていきます。美倉は後を追います。美倉は誘われるがままに女を抱きキスをし倒れ込みます。
先生、何しているの! ばるぼらが現れ、棒のようなもので女の頭を殴りつけます。首が飛びます。さらに殴りつけます。腕がもげます。美倉の足元にはバラバラになったマネキンが転がっています。
美倉はその名声ゆえに有力政治家から後援会会長にと求められ、その娘からも擦り寄られています。(娘と性的関係があるかどうかは映画からはわからない)
ある日、邸宅に招かれ、庭に出ますと女が座っています。女に誘わるように庭の奥に入り抱き合います。
先生、何しているの! ばるぼらが女を殴りつけます。犬が血を流して倒れています。
(どこだったかは記憶にありませんが)美倉とばるぼらのセックスシーンがあります。
美倉はばるぼらに結婚しようと言います。ばるぼらが母親(渡辺えり)のもとに連れていきます。母親は呪術的な宗教の教祖様みたいです。魔術的な結婚式が始まります。警察に踏み込まれます。
逃げ切った美倉ですが、ばるぼらとはそれっきり、街中探しても見つかりません。母親の元を訪ねてもそのドアさえ消えてしまっています。
美倉はまったく書けなくなります。流行作家の地位も失います。
美倉には甲斐加奈子(石橋静河)という秘書がいます。作家としての美倉はこの甲斐がいてこそだったようです。(この甲斐とも性的関係があるかどうかは映画からはわからない)落ちぶれた美倉に、私がなんとかするから大丈夫とささえます。
甲斐が仕事をもってきますが、やはり美倉には書けません。
街をさまよい歩く美倉、ばるぼらを見つけます。ばるぼらは、私はばるぼらじゃないと言い張りますが、それでも行動を共にします。
美倉はばるぼらを連れて山に逃げます(逃げているわけではないね)。廃屋となった別荘に入ります。ばるぼらが寒いと言います。暖炉に火をおこします。ばるぼらがお腹がが空いたと言います。しかし、食べるものは何もありません。
眠っていたのか美倉が目覚めます。ばるぼらと呼びますが、死んでいます。美倉はばるぼらを裸にし死姦します。空腹に耐えられなくなった美倉はばるぼらの乳房を切り取り食べます。
冒頭の地下通路、ばるぼらがいた場所には誰もいません。「都会が何千万という人間をのみ込んで消化し、垂れ流した排泄物のような女、それが、ばるぼら」とナレーションが入り終わります。
といった内容だったと思いますが、記憶違いがあるかも知れません。
この映画は演出がされていない
おそらくこの映画は演出というものがされていないのでしょう。
手塚眞監督、手塚治さんの息子さんということ以外には何も知りませんが、この映画にはつくり手の意識というものが感じられません。
俳優はシナリオや立ち位置などの指示にしたがって動いているだけに感じられます。
美倉をやっている稲垣吾郎さん、ばるぼらに惹きつけられていませんし、執着もしていませんし、ばるぼらがいなくなっても求めていませんし、そもそもばるぼらにだけではなくマネキンにも犬にも欲情していません。
ばるぼらの二階堂ふみさん、たくさん見てきていますが、こういう役は無理です。現実感がありすぎ存在として生々しすぎます。
撮影監督のクリストファー・ドイルさん、画が普通すぎます。
音楽の橋本一子さん、音楽の付け方が古すぎます。
勢いで言い過ぎました(ペコリ)。