あらすじ/ラストレターよりは感傷さが薄まり見やすい
「ラストレター」の中国版です。岩井俊二監督自ら監督しています。ただリメイクというわけではなく、この中国版のほうが先に制作されているようですし、それにリメイクですと新たな視点とか他文化の視点とかが入りますが、この映画はほとんど「ラストレター」と同じつくりですし、全体としては同じように叙情的、かつ感傷的です。
「ラストレター」を見たのはいつだろうと記事の日付を見ていみましたらまだ今年の1月でした。かなり前のような記憶ですが、新型コロナウイルスのせいで時間感覚が狂ってしまっています。
そのせいか記憶もおぼろげです。
そんな中でも一番私の記憶に残っているのは、鏡史郎(福山雅治)が亡くなった未咲の元夫陽市(豊川悦司)に会いに行く場面です。鏡史郎は大学時代の2、3年間未咲と付き合っていたのを陽市に取られたと思っています。その未咲が自殺したのは陽市のせいだと聞かされた後にわざわざ陽市に会いに行くわけです。
あれは何をしに行ったんでしょうね。現実にはまずありえないシーンで、もしあり得るとするならぶん殴りに行くくらいだと思いますが、とんでもなく逆で、陽市にお前は未咲に何の影響も与えていないと罵倒されてすごすごと引き下がってくるのです。
まあ映画的な結果としては、青春時代の2、3年の付き合いなんてものは恋愛に恋しているみたいなもので鏡史郎は本当の未咲を知らなかったということですし、未だ10代の未咲に恋している鏡史郎ということがよくわかってよかったとも言えます。
ただそれも豊川悦司さんの存在感ということだったようで、この中国版ではそうした印象はなかったです。むしろ元夫のジャン・チャオがいたたまれなくなって逃げ出したと語る自虐的な台詞のほうが立っていました。
鏡史郎であるイン・チャン役のチン・ハオさんからの印象ということもあるのでしょう。
イン・チャンは鏡史郎ほど過去の郷愁にまどろんでいる感じはしません。もっとさらっとした人物像になっています。設定は同じく作家で、未咲であるチィナンとのことを書いた一冊しか出版できていないのですが、さほどチィナンのことで過去に引っ張られている印象はなくもう少し客観性が感じられる人物になっています。
俳優で言いますと、この中国版は過去のチィファ役であり現在のサーランの二役を演じているチャン・ツィフォンさんがうまいですね。現在19歳、撮影当時はもう少し下にしても幼さからくる様々な感情がとてもうまく出ていました。
ただそれが逆に現在のチィファとの連続性という点ではマイナスに出ています。うまく繋がりません。現在のチィファはイン・チャンと同じように淡白な印象です。過去を引き摺っていません。
一般的に大人はそんなもので25年前の初恋のことなど忘れてしまうものですが(笑)、この映画は忘れられない人たちの話ですので、忘れていないチィファでありイン・チャンでないと物語として成立しません。
この映画が「ラストレター」よりも客観性を帯びてサラッとしているのはそのあたりからだと思います。ほぼ全編感情の波を作ろうとするかのように音楽を入れていたのはそれを補おうとしたのかも知れません。
ということで、やはり「ラストレター」を見ていますと比較対象として見てしまいます。こういう映画の作り方はあまりよくないですね。というより、日本で公開することがよくないです。
「ラストレター」の自分の記事を読んでも物語自体を思い出せない部分もありましたので記録のためにあらすじを残しておこうと思います。
中国版の役名に日本版の俳優名を入れておくとわかりやすそうです(笑)。なにせ日本版の役名が読みくいです。
まず、チィナンとチィファ(松たか子)の姉妹にはそれぞれムームー(広瀬すず)とサーラン(森七菜)という娘がいます。二人は回想シーンの高校時代のチィナンとチィファも演じます。
チィナンが亡くなり葬儀のシーンから始まります。チィナンは自殺ですが世間体を考え隠されています。葬儀を終え、ムームーが落ち込んでいるのを見兼ねてサーランが休みの期間中(チィナン姉妹の実家に)残ることになります。また、ムームーはチィナンあてに同窓会の案内が来ているとチィファに渡します。
チィファは姉が亡くなったことを伝えようと同窓会に出ます(そんなことはあり得ん…ああ、イン・チャンに会いたかったのか…)が、姉と間違われて言いそびれてそのまま帰ってしまいます。同窓会にはかつてチィファが思いを寄せていたにもかかわらず実は姉のチィナンを好きだったイン・チャン(福山雅治)も出ており、帰り際チィファは連絡先を尋ねられます。
チィファのスマホにイン・チャンから「25年間ずっと恋していました(こんな感じ)」のメッセージが入り、それを見た夫がスマホを壊してしまいます。チィファはチィナンのふりをしてスマホがなくなって連絡できないとイン・チャンに手紙を書きます。その後も何通か自分の住所は書かずに手紙を送り続けます。
イン・チャンは住所がわからないのでチィナンの実家あてに手紙を出します。その手紙を受け取ったムームーとサーランは面白がって返信します。イン・チャンはチィナン名の手紙を2ヶ所から受け取ることになります。
フラッシュバックで高校時代のエピソードが入ります。
転校生のイン・チャンはチィナンに恋をします。妹のチィファはイン・チャンに思いを寄せていますが恋のキューピット役を演じます。チィナンにあてたイン・チャンのラブレターを預かりますがチィナンには渡しません。
記憶が曖昧ですが、後日それもばれて手紙はすべてチィナンに渡っていたと思います。
また後日、チィナンがイン・チャンに声をかけ卒業式の挨拶文の添削を頼みます。この挨拶文がラストに使われます。二人は親しくなったということです。
現在です。チィファの家には夫の母親が来ており、ある日チィファはその母親が男性と一緒に歩いているところを目撃し後をつけます。たまたま(であるわけないけど)母親はその男性宅でぎっくり腰になり自宅療養になります。
チィファが男性に理由を尋ねますと、男性は母親の恩師であり英文の添削を頼まれているということでした。チィファはこれ幸いと男性と母親の手紙のやり取りを助けるとともに男性の住所を借りてイン・チャンに手紙を出します。
こうやってあらすじを書いていますと、この物語がかなり計算して作り込まれていることがわかります。たとえば、チィファとイン・チャンを再会させるためには自宅ではない住所が必要だ、そのためには第三者を登場させよう、じゃどう関連付ける? 母親を出そう、母親がいたままじゃ住所が借りられないぞ、病気にしよう、いやぎっくり腰がいい、みたいに作り込まれているのでしょう。
ちょっとやりすぎですね。
イン・チャンが男性宅を訪ねてきます。イン・チャンはチィファがチィナンではないことはわかっていた、大学生の頃チィナンと付き合っていたと語り、チィファはチィナンが亡くなっていること、自殺だったこと、ジャン・チャオ(豊川悦司)という男と結婚し二人の子ども(ここは日本版と違う)がいるがジャン・チャオのせいでうつ病になり、ある日ジャン・チャオは姿を消し、その後実家に戻っていたと話します。
イン・チャンはジャン・チャオを訪ねます。ジャン・チャオはお腹が大きなジーホン(中山美穂)と暮らしています。
ここの経緯は上に書いたとおりです。
イン・チャンは今は廃校となった懐かしき学校を訪ねます。そこで偶然ムームーとサーランに出会い、二人が高校時代のチィナンとチィファにそっくりであることに驚きます。
二人は自分たちが手紙を書いたことを告白し、イン・チャンを自宅へ招きます。チィナンの遺影に手を合わせるイン・チャン、ムームーはイン・チャンからのラブレターの束を出してきて、これは母親の宝物だったと言います。ムームー自身もイン・チャンの小説『チィナン』を読み、母親の相手がイン・チャンだったらどんなによかったかと話します。
正直、これはオイ、オイですね。母親の人生を否定することです。それがどんなに後悔に満ちたものだとしても本人が選んだ道として他人、仮に肉親だとしても否定していいものではありません。この映画、特に「ラストレター」が叙情的、かつ感傷的(すぎる)というのはこのことで、過去から現在を否定して涙を流してどうするの? ということです。
別れ際、振り返って見るムームーとサーランがイン・チャンの記憶の中のチィナンとチィファに重なり合い、思わず写真におさめます。
中国版ではこのあたりにムームーの弟のエピソードが入りますが、まさしくエピソードにしかみえなく唐突です。日本版では男の子がいるのはチィファ(松たか子)の方だったと思いますし、特に重要な役割はなかったはずです。
後日、イン・チャンはチィファの職場を訪ね、思い出の学校やムームーとサーランの写真を収めたフォトブックを渡して去っていきます。
チィナンは遺書を残しています。開けられずにいたムームーでしたが、吹っ切れたのでしょう、思い切って開けますと、そこにはイン・チャンに添削してもらい卒業式で読み上げた思い出の文章が入っています。
チィナン、冷静すぎないか?
という映画でした。