ラストが衝撃的、カトリーヌ・ドヌーヴ、キアラ・マストロヤンニ母娘共演
かなり衝撃的なラストです。
そっちで売ればよかったのにと思いますが、まあ映画自体焦点がはっきりしないところがあり、どうしてもこの映画を売ろうとすればカトリーヌ・ドヌーヴさんとキアラ・マストロヤンニさんの母娘共演を持ってくるしかないとは思います。
個人的には「やさしい嘘」「パパの木」「バベルの学校」のジェリー・ベルトゥチェリ監督ですので興味深く見ました。「バベルの学校」がそうですが、ドキュメンタリーで撮ることが多いようで、この映画が3本目の劇映画です。
エンドロールに「だれだれに捧ぐ」と入っており、名前を記憶できませんでしたので誰なんだろうと調べましたがそれはわからないまま、原作があることがわかりました。
Faith Bass Darling’s Last Garage Sale (English Edition)
- 作者:Rutledge, Lynda
- 発売日: 2012/04/26
- メディア: Kindle版
Lynda Rutledge さんはテキサス在住の小説家で、ご本人のサイトでこの映画の紹介がされています。
そこにも映画の原題の「La Dernière Folie de Claire Darling」が英語に訳されて「The Last Madness of Claire Darling」とありますが、原題は「クレール・ダーリングの最後の狂気」という意味です。
クレール(カトリーヌ・ドヌーヴ)は北フランスの田舎町の古びた邸宅にひとりで暮らしています。
この邸宅、全景の画像が見つかりませんでしたが下のような感じの本当に邸宅という言葉通りで、かなり古そうで実際に住んでいる感じではありませんでしたが、ベルトゥチェリ監督の祖母の持ち物らしいです。パリから北へ50kmくらいのヴェルドゥロンヌ Verderonne という町とのことです。
ある夏の日、目覚めたクレールは、今日自分が死ぬと確信します。
この死ぬと確信するというのはさほど強いニュアンスではなく、私きっと今日死ぬわという感じだと思います。ですので、たとえば病床にあって死期を悟ったとか、神の啓示をうけたとか、死のうと思ったとか、そうしたことではありません。ただ、その後の映画の展開から言いますと、また認知症の兆候があることを本人が自覚しているようでもあり、もうそろそろいいかといういうニュアンスはありそうです。
クレールは村の若者たちに頼み、邸宅中の装飾品(アンティーク)を庭に出してガレージセールを始めます。それを知った娘マリー(キアラ・マストロヤンニ)が駆けつけてきます。マリーは訳あって20年前に家を出ています。
母と娘の20年ぶりの対面、そして、ふたりの記憶が宿った装飾品の数々がクレール家族の過去を蘇らせます。
ということで、その後最後(にはすごいことが起きますが)まで大きな出来事が起きるわけではなく、いわゆるフラッシュバックとして現在に過去の映像が挿入されていきます。
その演出手法は特徴的です。
過去のシーンがカットインやオーバーラップで繋がれるのではなく、たとえばクレールがなにか思いのある絵画を見ているとしますと、そのカメラがその絵画にパンしていき、そこに過去の夫がいるといった具合です。(実際にそのシーンがあるという意味ではありません)
そうした手法のフラッシュバックが多用され家族の過去が明らかになります。
その過去の事実だけを書いてもこの映画を伝えることにはなりませんし、とにかくかなり頻繁に細かく過去のシーンが挿入されます。当然、若きクレールをドヌーヴさんというわけにもいかず、アリス・タグリオーニさんが演じ、マリーの方も子ども時代と青年時代と別の俳優が演じています。
現在と過去の二時代が切れ目なくつながって頻繁に行き来しますので始まってしばらくは頭の整理をするのが大変です。
クレールの一家は邸宅でもわかるようにかなり裕福で夫は採石場を経営しており、夫婦にはマリーの他にマーティンという息子がいます。しかし、マーティンは採石場で爆破を任されそのときに事故で亡くなっています。
家族はそのことから亀裂が生まれ、クレールは夫を恨むようになっています。
ある時、夫が倒れます。駆けつけたクレールは電話の受話器を上げ救急車を呼ぼうとしますがダイヤルせずそのまま受話器をおろしてしまいます。遅れて駆けつけてきたマリーには救急車を呼んだと言います。
ただ、これは事実かどうかわかりません。おそらくクレール自身の何らかの自責の念から記憶が混乱しているんだろうと思います。現在のシーンで、クレールがマリーに自分が救急車を呼んだかどうかを尋ねるシーンがあり、マリーは呼んだと答えていました。
クレールとマリーの諍いの件は、何が直接的な原因であったかはっきりしていなかったと思いますが、ある時言い争いになり、突発的にクレールがマリーの頬を叩き、それをきっかけにしてマリーは家を出ていきます。マーティンのこと、父親のこと、家族のことが積もり積もった結果だったんでしょう。
マーティンのシーンもかなりあります。現在のクレールが村の若者をマーティンと見間違えたりするシーンもあります。クレールが神父を呼び悪魔祓いをしてほしいと頼むシーンもあります。この神父との関係はなにかカットされているように感じましたがよくわかりません。
というようなことが脈絡なく示されていきます。村はお祭りなんでしょうか、サーカスが来たりとか、クレールがカートに乗って戯れたりとか、マリーが幼馴染(のボーイフレンド?)と会って戸惑いながらももう一歩近付こうかと迷ったりとか、とにかくいろんなことが描かれていきます。
そしてラスト、クレールがお茶入れようとコンロにカチッと火をつけます。クレールはすぐに違う方を向いてしまい気づきませんが一旦火がついたものの消えてしまいます。クレールはソファーに横になり眠ってしまいます。
花火が上がっています。ドーン、パチパチパチと花火の火の粉がクレールの屋敷にも降り注ぎます。ソファーに横たわるクレール、充満したガスに引火し、その一点から徐々に広がる火炎がスローモーションで描かれ、そして邸宅は爆発し炎に包まれます。
インパクトのあるラストシーンでした。
邸宅が燃えているシーンもあり、CGでしょうが、ああ…とため息が漏れてしまいます。
ふと思うことは、これはジュリー・ベルトゥチェリ監督の私的な映画かもしれません。あるいは「だれだれに捧ぐ」の相手は祖母であるとか家族の誰かだったのかもしれません。(もし違っていてまだ存命であればすみません)
カトリーヌ・ドヌーヴさん、スターであることの証明ではあるのですが、ますますどの役を演じてもカトリーヌ・ドヌーヴを演じるカトリーヌ・ドヌーヴさんではあります。