人々が交差する街、イスタンブール
レヴァン・アキン監督はスウェーデン生まれのジョージア系スウェーデン人です。前作の「ダンサー そして私たちは踊った」はジョージア国立舞踊団の団員たちの話で全編ジョージア語でした。今回の「CROSSING 心の交差点」もジョージアの女性がインスタンブールへ姉の子どもを探しに行くという話です。自身のルーツへの思いが相当強いということでしょう。

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ネタバレあらすじ
レヴァン・アキン監督のインタビュー記事を読んでいましたら、自身のルーツに関わるこんなやり取りがありました。
トランスジェンダーという映画の軸となっている話に続いての質問です。インタビュアーの「”Crossing” は自分の本当の居場所(one’s true home)を見つけることについての映画でもありますが、あなたがここが自分の居場所と感じるのはどこですか?」との質問に、
I don’t really feel at home anywhere, unfortunately, which is very sad. In Sweden, when you’re dark, they will always be like, “Where are you from actually?” And I’m like, “I was born here and I’m Swedish.” But you’re never Swedish here—you’re made to feel that you’re not.
悲しいことですし残念なことですが、どこにいても本当にここが居場所だと感じることはありません。スウェーデンでは肌の色が濃ければ必ず「どこの出身ですか」と尋ねられます。私が「ここで生まれたスウェーデン人です」と答えたとしても、決してスウェーデン人だとは感じられることはありません。
と答え、それはトルコやジョージアにいても同じことだと付け加えています。レヴァン・アキン監督の両親はトルコで生まれているらしく、その後ジョージアに移り、監督が生まれる前にスウェーデンに移住しているようです。
そうした社会から異質なものと見られる疎外感はおそらくレヴァン・アキン監督の根源的な感覚であり、それが前作の「ダンサー そして私たちは踊った」では舞踊団という組織の中での同性愛を題材にすることになり、この「Crossing 心の交差点」では、ジョージアという国から排除された MtF の姪をイスタンブールに探しに行く映画になったんだろうと思います。
なお、レヴァン・アキン監督は自分はゲイだと極めて自然に話しています。
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リアとアチ、イスタンブールへ
ジョージアのトルコ国境に近い黒海沿岸の町バトゥミで暮らす70歳の元教師リア(ムジア・アラブリ)は、姉の死に際の願いである、性別移行した息子(以下、姪テクラ…)をイスタンブールから連れ戻したいとの思いを叶えようとします。
リアが黒海沿いの海辺を歩いてある家にやってきます。
このシークエンス、なぜこの家を訪ねてきたんだろうとちょっとした違和感を感じましたが、どうやらあれはリサーチで訪れたときにロケ地として気に入ってシナリオを書き直したということらしいです。これもインタビューで語っていました。テクラは性労働をしているようなニュアンスでしたので、もともとは町中の裏通りのような設定だったかもしれません(想像です…)。
とにかく、そこでアチ(ルーカス・カンカヴァ)を知り、一緒にイスタンブールに行くことになります。アチは兄夫婦の家に居候しており、おそらく居場所がないということだと思います。それに働きたくても仕事がないのでしょう。アチはテクラのイスタンブールの住所を聞いていると嘘を言い、リアに取り入ろうとします。リアには嘘だろうと予想はついているんでしょうが、アチがトルコ語も英語もわかると言うこともあり、連れて行くことにします。
このふたりの人物像とそのバランスがとてもいいんです。リアは堅物でプライドも高そうな人物に造形されており、それでもイスタンブールでは突如その奥に秘められた優しさやフレンドリーさが溢れ出たりします。まあ、酒の力なんですけどね(笑)。リアはいつも酒を持ち歩いています。
アチの方は人懐っこい性格ということもあり、どこででも生きていけそうな力強さがあります。猫キャラですね。リアに出ていけと怒られてホテルを追い出されても、しばらくするとリアの目につくちょっと離れたところに何となくいるというシーンがあります。野良猫と遊んでいました(笑)。
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「ノー、テクラ」
バトゥミからイスタンブールまではフェリーです。このフェリーのシーンがまさしく Crossing で、この後のドラマの主要人物とすれ違うことになります。
このフェリーのシーンでは船内の人々がドキュメンタリーのように撮られています。カメラが流れるように階を移動しながらうごめく人々をとらえていくワンショットのカットなどもあり、続いてアチがデッキの柵から乗り出しているのをリアが引っ張り戻す(意味はよくわからない…)カットがあり、切り替わって階上からのカットになりますと、そこにはエヴリム(デニズ・ドゥマンリ)いるといった具合です。
この後はリアたち二人のシーンとエヴリムのシーンが交錯するように進み、映画2/3くらいで実際に出会うことになります。そのふた組を引き合わせる存在のストリートチルドレンと思しき子どもたちもそのフェリーに乗っています。兄妹に見える兄の方はサズ(リュート…)を演奏し、まるで吟遊詩人のようです。
イスタンブールです。アチが持っている住所(後にトランスと検索に入れて出た住所と言っていた…)に向かおうとしていますと吟遊兄妹が案内してやるとつきまとってきます。アチは信じちゃだめだ、こいつら字も読めない(嫌な言い方ではない…)と言いますが、リアはいいからと後についていきます。
イスタンブールは坂が多い街なんでしょうか、その一角、女性たちが立って客を待っていたり、窓から顔を出しているあたりに連れてこられます。アチがテクラという女性を知らないかと片言で尋ねますと、窓の女性が他の建物にも声を掛けて聞いてくれます。
「ノー、テクラ」、見つかりません。
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人々が交差する街、イスタンブール
この映画のドラマを動かしていくのはもちろんリアのテクラ探しですが、テクラはいったいどこへ行ったんだといったミステリーでもなく、テクラはトランス女性ですので LGBTQ+ をテーマとしているかと言えばそうでもなく、やや漠然としたところがあるのですが、それでもどことなくいい印象が残る映画なんです。
おそらくイスタンブールという街の魅力がうまくとらえられているその中に、リア、アチ、エヴリムという3人の魅力がふわっと浮かび上がるよう感じられるからだと思います。
リアとアチは安宿をとります。リアはバス付きじゃないと不満そうです。アチが共同のシャワールームがあると言いますとリアは外で見張っていてくれと言いつけて入っていきます。
アチがバスタオルだけでシャワーから帰ってきますとリアは早くはいてくれ(パンツを…)と顔を背けています。リアは持ち歩いているボトルの酒をキャップで飲み、アチにも差し出しています。蒸留酒と訳されていましたので結構アルコール度は高いものでしょう。
そんな親子のようにも感じられるふたりです。
その夜、アチは寝付けず繁華街へ出ていきます。レストランで仕事はないかと尋ね歩いていますとホテルの従業員の女性と出会いパーティーに誘われます。アチは食べまくり飲みまくって悪酔いしています。そのパーティーにはエヴリムもいますが知り合うわけではありません。アチは翌朝までホテルの従業員と遊び、カフェでの朝食ではマフィン(だったか…)を3個包んでいます。リアへのお土産でしょう。
翌朝、リアが目を覚ましますとアチのベッドには姿がありません。リアの表情は変わりませんが機嫌は損ねていると思われます。リアは朝食用のパン(かな…)を持って昨日訪ねた建物に向かいます。ドアはまだ閉まっています。リアは建物の前に座り持ってきたパンをかじり始めます。
こういうシーンがいいんです。
その建物が開くまでの間、リアがイスタンブールの町を歩く観光PRのような映像があり(笑)、その建物に戻りますと、ある部屋の住人(かな?…)が中に入れてくれて、さらにお茶まで出してくれます。結果はノー、テクラで変わりはしませんが、住人、つまりは性労働に従事している人たちのフレンドリーさが描かれています。そこにはトランス女性とともにシス女性もいて、私を探しに来てくれる人は誰もいないと呟いています。
リアがホテルに戻りますとアチが戻っています。リアは出ていってと言い、アチはクソババア(字幕…)と捨て台詞を残し出ていきます。リアはアチが置いていった3個のマフィンを見ています。
エヴリムが恋人を待っています。すっぽかされたのでしょう、怒りながら歩いていますと車から声を掛けられます。白タクのようです。エヴリムは運転手が好みだったのでしょう、車に乗り込み、暗闇に停めてセックスです。運転手は学生だと言っています。この人物もいい人で最後まで絡んできます。
リアがカフェにいます。ふと見るとアチが野良猫にかまっています。リアはお腹は空いていないかと声を掛けます。そしてレストラン、アチはタバコを吸おうとしますが空です。いきなり後ろの席の男の肩を叩きタバコはないかと聞きます。男はタバコをくれ、火までつけてくれます。え、スゴっ! ですが、その後、その男はジョージア出身でトルコで商売をしていると言い、同席して奢らせてくれと言ってきます。
このシーンもとてもいいのですが、勘定の際に男が席を立ちますので、え、騙される? なんて思ったのは私の心が濁っているからでした(笑)。その後、かなり飲んだためでしょうか、リアの押さえ込まれていた感情が爆発し、得意の踊りを街なかの皆の前で踊りジョージア男を誘います。残念ながら男は帰ってしまい、リアは悪酔いします。

翌朝、リアの表情は相変わらず厳しいものですが、間違いなくリアとアチの距離は縮まっています。
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人が消えるためにやってくる街、イスタンブール
とにかくいろんなことが起きるイスタンブールです(笑)。
エヴリムに電話が入ります。すぐ行くと答えて警察署に向かいます。エヴリムは「ピンクライフ」という NGO で働く認定を受けたばかりの弁護士です。「ピンクライフ Pembe Hayat」は実在の組織です。
警察署での交渉シーン、明らかに警官たちはエヴリンを舐めてかかっています。その上、エヴリンがトランス女性であるからだと思いますがその対応や言葉尻は下卑たものです。エヴリンの対応は感動的です。警官たちを刺激することなく正論と機転でもって目的を達成します。
電話の依頼は補導された吟遊兄妹の男の子を引き取ることでした。エヴリンは男の子になにか書類にサインしたかと尋ねています。詳細はわかりませんが結構細かい演出です。
「ピンクライフ」のオフィスです。吟遊兄妹に事情を尋ねていますと、男の子が窓を見てあの人たち知っていると言います。リアとアチが向かいの建物を尋ね歩いています。
3人がやっと出会いました(笑)。
エヴリムの協力でテクラを探すことになり、ある娼館を訪ねます。トランス女性(だと思う…)のボスは確かにいたが消えたと言い、ジョージアの娘は素行が悪い、クスリに溺れたらもう抜け出せないと言っています。テクラが残していったものが少しだけあると渡してくれます。リアが抱えているものがそれです。

エヴリムが例の白タクを呼んでくれてホテルまで送ってくれます。エヴリムは男に朝食を一緒にどう?と言い、ふたりで出かけていきます。
ホテルに戻ったリアはアチに一緒にバトゥミに帰るかと尋ねています。アチは残ると答えます。
キャリーバッグを引きフェリー乗り場に向かうリア、ひとりの女性とすれ違います。女性が振り返ります。リアおばさん? 駆け寄るリアと女性、そして熱い抱擁。女性の部屋、リアが誰と暮らしているのかと尋ねますと女性は恋人、下で美容師をやっていると答えます。
フェリーのリア、リアのモノローグがかぶってきます。
「私も姉もあなたの気持ちを考えることもなく周りの目を気にしているだけだった」
もっと長いのですがこんな内容でした。さらに「どこにいてもきっと探し出す」とも語ります。
「カラキョイ行きのフェリーが出港します」とアナウンスが流れます。
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感想、考察:リアはカラキョイへ探しに行くのか?
カラキョイはイスタンブールのヨーロッパ側の町です。リアはテクラを探しに行くのでしょうか。
もちろんテクラとの遭遇シーンはリアの後悔からくる妄想シーンです。そして、リアのモノローグはレヴァン・アキン監督のメッセージでしょう。
この映画の主人公を高齢の人物とし、映画の最後を明確なメッセージで終えているのは、クィアのひとりであるレヴァン・アキン監督自身が若い頃に感じていた思いからのもののようです。取り戻せない過去ではあるけれども、こうであって欲しかったということでしょうし、今同じような問題を抱えている人がいるのならちょっと声を掛け合うことからお互いに理解し合おうよということだと思います。
という味わい深い映画でした。レヴァン・アキン監督は1979年生の現在46歳です。
ところで、映画冒頭にテロップで「ジョージア語やトルコ語には文法上の性差はない」と表示されます。何を意図した表示なのかなと気にはなっていたんですが、ジョージア語もトルコ語も聞き取れませんのでわかるわけもなく、Gemini に聞いてみました。
ジョージア語には文法上の性差(男性名詞・女性名詞の区別)が存在しません。この特徴を具体例で示すと以下のようになります。
- 三人称代名詞の統一
英語の「he(彼)」「she(彼女)」「it(それ)」に相当する区別がなく、すべて一つの言葉で表されます。
is (ის) :彼、彼女、それ
文脈によって誰を指しているかを判断します。- 職業や役割を示す名詞
男性か女性かによって名詞の形が変化することはありません。
masts’avlebeli (მასწავლებელი) :(男性の)先生 / (女性の)先生
p’rinavi (პრინავი) :(男性の)パイロット / (女性の)パイロット
mebufete (მებუფეტე) :(男性の)バーテンダー / (女性の)バーテンダー- 形容詞の不変性
名詞の性に合わせて形容詞の語尾を変化させる必要もありません。
例えば「良い(k’argi)」という形容詞は、対象が男性でも女性でも k’argi (კარგი) のままです。
このようにジョージア語は、名詞・代名詞・形容詞・動詞のいずれにおいても文法的な性の区別を行わない、ジェンダーニュートラルな構造を持っています。
「男:კაცი / katsi / カツィ)」「女:ქალი / kali / カリ」といった明確な性別区別はあるわけですから、こと性別移行ということに関してはちょっとポイントがズレているような気がします。ジェンダーニュートラルな社会なのに LGBTQ+ に注がれる目は厳しいという逆説的なことを言いたいのかもしれません。